きょうの清水 10月9日

昨年と比べて低迷していた時期が長かったエスパルスだが、ここに来て勝ちが続いている。(写真はエスパルスの快勝を伝える静岡新聞)先月末に、回覧板で「エスパルス自治会応援デー」の申込み用紙が回ってきた。二回目だろうか。たぶん、清水の連合自治会で順番に「応援デー」の案内が回ってくるのだと思う。 地元の公民館から日本平のサッカー場までバスが出て、終わってからも同じ場所に戻ってくる。それだけでも便利なのに、バス代込で大人2000円の格安料金だ。 もっとも、誰かが支払っているのに、都合がつかず「無料」となったチケットがいろいろなルートで回ってくるから、安さの感覚には個人差があるかもしれない。 数年前の大晦日、いつものように午前0時の初詣に鹿島神社に出掛けたら、天皇杯決勝のチケットをどうやって手に入れるのか、参拝にきた善男善女は、その話題で持ちきりだった。ある自治会の役員さんは、地元選手の後援会に入っているので、そのルートで確保できたと笑っていた。地元の強みは、こんな所にも現れる。

残念ながら、10月18日の試合は西久保の氏神様である鹿島神社の宵祭りと重なってしまった。

清水駅前ロータリーに出された映画宣伝の看板。映画の最後に撮影に協力した会社や団体名が出るが、その中に「三保園ホテル」の名前があった。月曜日の午後、朝からの仕事が早めに片付いたので「次郎長三国志」を観てきた。小雨が降る、平日午後の上映だ。
チケット売り場で、希望する座席を「前から5、6列目」と告げると、E-12番のチケットが渡された。すんなり希望の席がとれたので、どの位席が埋まっているのか多少の不安があったが、8番シアターに入って驚いた。上映開始10分前で、ほぼ満席だ。最前列と、真ん中にひとつだけE-12が空いている。最上部もほぼ埋まっていた。予告編が始まっても客が入り、最前列に座ってゆく。満席である。8番はMOVIX清水の中で1番小さなシアターだが、それでも満席は嬉しい。
客のほとんどは年金世代だった。どちらかと言えば、ドリプラの映画館(シネコン)に縁が薄そうな世代のように思える。そんな世代が客席を埋めてしまう。次郎長映画の底力だろう。ご当地の清水である、もっと大きなシアターでも大丈夫のような気がした。
映画は理屈抜きに面白かった。次郎長の中井貴一は堂々としたものだし、お蝶の鈴木京香も流石だ。法印大五郎の笹野貴史は文句なしに上手い。鶴吉女房役の真由子も光っていた。脇役も賑やかだが、ワンカットしか出なかった親分衆にも、名だたる役者が登場する。津川雅彦(マキノ雅彦)監督の人脈だろうか。いや、昭和30年代の次郎長映画そのものが、大物役者総出演だったから、伝統を継承しているというべきだろう。

「庵原川仲裁」(清水次郎長菩提寺、梅蔭寺境内にある次郎長遺物館に展示されている絵画より)映画は、捕方に追われ清水から逃げる次郎長一家の場面から始まる。次郎長の名前を知らしめた「庵原川の仲裁」の後日談である。追われる原因を作った三馬政(さんばまさ)が、この映画では敵役となる。次郎長物では最大の宿敵である黒駒の勝蔵が、気配を匂わせるだけだったのが残念だが、これが荒神山に続く前編と思いたい。 講談や映画に描かれた次郎長伝を多少なりとも知っていると、あれと思う展開がないわけではないが、それを含めて涙と笑いと気合いで、全てを乗り切ってしまう。これぞ、「痛快娯楽時代劇」の王道である。久しぶりに楽しい映画を観た。

山口百恵の「曼珠沙華」は大好きな曲なのだが、なぜか土手に咲く花を見ても、歌を思い出すことはない。初秋の風に揺れる彼岸花は情念ではなく、健康的な赤である。庵原川沿いのあちこちに彼岸花が咲いていた。 子どもの頃の記憶だと、家の近くでよく見かけたが、まとまった彼岸花は、川岸まで来ないと見られなくなってしまった。花が消えたのではなくて、近所のあった田畑が消え、住宅や駐車場になってしまっただけかもしれない。 それでも、家から自転車で5分足らずで、彼岸花の群生を見ることができる。まだまだ、自然に恵まれていると思う。

庵原川原橋近くの土手に群生している彼岸花。JAしみずの大きなビルが目印の庵原交差点から、庵原街道を北に向かう。主要地方道清水富士宮線である。東名高速の下をくぐり、しばらく進むと庵原川の川岸と道路がつながる。つながった地点にある原橋を渡ると、庵原中学に出る。道なりに北進すると、庵原小学校、伊佐布へと向かう。 現在はバス路線となっている、この道路に軽便鉄道の「庵原軌道」が走っていた時代があった。 1913年(大正2)江尻〜西久保間が開通し、翌年に西久保〜庵原(金谷)間が結ばれたが、開通から3年後の1916年(大正5)に経営難から廃線となった。始発駅は江尻の割烹料理店「大花」の辺りだったという。 江尻から西久保を経由して、庵原までのウォーキングというのもいいかもしれない。庵原軌道の全長は5.5kmというから、清水港線跡を清水駅から三保まで歩くより短い。

庵原川の原橋から下流を眺める。第二東名の関連で、庵原川の下流は掘り下げる工事が行われたが、この辺りは以前と同じようだ。

昆虫図鑑には「イチモンジセセリ」という名前で紹介されている。蜜を吸うのに夢中らしく、カメラを近づけても逃げようとしない。台風が未明に通り過ぎた。台風一過で、空気が澄んでいるのだろうか、日差しが鋭く感じる。そして、暑い。 近くにある畑の隅に咲いているニラの花に、ギンチョッチョが集まっていた。子どもの頃、蛾に似ている姿から忌み嫌う友人もいたが、三角翼の飛行機を連想させる、この蝶が好きだった。 ギンチョッチョが登場すると、トンボが見えなくなるような気がする。暑さは、まだしつこく残っているが、明け方の空気には、涼しさというより冷え込みに近い感覚がある。 暑さ寒さの感覚は個人差もあるが、年代による違いが大きい。この週末で、冬の布団を出してあげようと思う。


この運河の正式名は「愛染川」である。運河が袖師船溜まりにつながる場所に水門があるが、ここが愛染川の河口になる。清水にある大工場は分社化や業界再編で会社の名前が変わっている。工場だけでなく銀行の名前も変わっているから、場所を説明する時に困る。「みずほ銀行の横」と言われるより、「宝くじの勧銀の横」と説明した方が通りがよい場合がある。カタカナ名前に変わっても、江尻船溜まりの北にあるタンクは東燃で、南の穀物サイロは豊年である。 東燃は湾岸道路に横付けしたような埋立地にタンクが並ぶ。その昔は、製油施設のシンボルともいえる蒸溜塔があったが、今は油槽所としての機能だけになったという。

アメリカのテロ対策により、国際貿易港は人が自由に入れなくなった。船溜まりは、国際貿易と縁がないので、誰でも自由に入ることができる。釣り人にとって最後の楽園のようなものかもしれない。道路とタンクの間に運河がある。昭和一桁の人から、子どもの頃、この運河で泳いだという話を聞いたことがある。生活用水が流れ込まないから、泳いだとしても不思議はないと思っていた。 昭和初期の地図を見たら、運河の道路側は砂浜になっている。湾岸道路などができる遙か昔だ。元々砂浜だった場所の海側に埋立地が出現したのだ。運河で泳いだというより、子どもたちは新しい陸地を目の前に見ながら砂浜で遊んでいたのだろう。公害という言葉が生まれる前の時代だ、運河が今のように澄んでいたかどうか疑問が残る。 東燃を挟んで北側に袖師船溜まり、南側に江尻船溜まりがある。どちらも明治時代には海岸で海水浴場としても賑わった。清水の近代史は港の歴史でもある。

柿の木をよく見ると先端の葉が虫に食べられている。下の方は無傷なので、先端にうまみが凝縮しているのだろか。畑の柿が膨らんできた。朝晩は涼しくなり、夏がけ布団では寒くなったが、日中の暑さはまだ衰えない。敬老の日が近いというのに、高齢者には辛い陽気が続いている。

この草が「猫じゃらし」という名前だということを知ったのは、NHKの人形劇を見てからだと思う。狗尾草(えのころぐさ)という呼び名を知ったのは、子どもと一緒に植物図鑑を見てからだ。子どもの頃に、この草を何と呼んでいたか思い出せない。「猫じゃらし」と呼んでいなかったような気がする。穂の部分をちぎって手のひらに包み込んで、モゾモゾと動かして遊んでいたことは、はっきり覚えている。その頃のイメージとしては子犬のしっぽというより、毛虫だった。 猫じゃらしは、駐車場や庭の隅など、あちこちで見かけるが華やかな色があるわけでなく、普段は気にとめることもないが、あの柔らかい穂を手に取ると、幼い頃の記憶がよみがえる。穂のなかに記憶スイッチが仕組まれているようだ。

9月になって子ども用ビニールプールも出番が少なくなったが、昼間の暑さでは、まだまだしまい込む訳にはいかない。家のすぐ近くの道路を南に進むと、秋葉山下の五叉路に出る。字名は車形(くるまがた)という。子どもの頃には大人も子どもも「車形」と呼んでいた。いや違う、大人たちが普段の会話で、そう呼んでいたから、子どもたちが呼び名を覚えた。今の子どもたちには、年寄りと一緒に暮らしていないと、昔の地名を呼ぶこともないかもしれない。 その道を、北に進むと庵原川の橋の袂に出る。戦国時代には、この道が関東と関西をつなぐ街道だったという。昔の地名は地形や人々の暮らしぶりから付けられたものが多いという。「車形」という地名は何を意味するのだろうか。「記憶スイッチ」がここにもあった。

秋葉山下の五叉路から秋葉山と北街道を見る。信号を西に進むと江尻へ、東に進むと庵原へ続く。12月の秋葉山例大祭では両側に露天が並び、道路は善男善女で埋まる。
いつもより早く目が覚めたので、近くを散歩してみた。昼間の猛暑はまだ続いているが、朝晩には涼しい風が吹くようになった。いくら暑いと言っても、カレンダーは9月である。
毎日、青と赤の花を咲かせている朝顔が、今朝も咲こうとしていた。夏が終わることに異議を唱えるかのごとく生け垣に蔓がたくさん伸びている。莟もたくさんある。セミの声は静かになったが、朝顔の季節は、まだまだ続きそうだ。
朝顔に見とれていると、朝日が道路にも差し込んできた。まぶしさと一緒に気温が上がってゆくのが判る。今日も暑くなりそうだ。
朝顔のすぐ近くに、蜜柑の木がある。見上げると、濃い緑色の蜜柑が朝日に輝いていた。昨夜の雨が滴になって残っている。一雨毎、季節は夏から秋に移りはじめている。

辻小学校の体育館がシートで覆われていた。まだ、大きな音は聞こえないが解体工事が進んでいることが判る。
清水区内の学校で一斉に耐震工事が始まったのは、今着工しておかないと国の補助金が出ないという事情があるという話を聞いた。事の真偽は判らないが、耐震工事が始まったことは歓迎したい。
ただ、東海大地震の危険が叫ばれ予知の為の施設は整備されているが、災害が起こった後の対策が後手に回っているような気がしてならない。
9月1日は防災の日だが、清水では12月7日(第1日曜)の防災訓練が、実質的な「防災の日」である。


秋葉山の祭礼でこの灯籠の裏側に射的の露店が並ぶ。晴れていれば造船所のクレーンを見ることができる。「ゲリラ豪雨」による被害が広がっている。今夜も大気が不安定で落雷を伴う大雨が予想されている。 七夕豪雨を体験している世代なら、大雨が降ると「あの時は・・・」と、34年前の記憶と比較するのが習慣になっている。たいがいは「あん時は、こんなもんじゃなかった」と、勝手に納得しているのだが、油断大敵、忘れた頃になんとかである。

長い石段は、近くにある高校の運動部にとっては練習場でもある。清水の市街地の大半を占める平地を清水平野と呼ぶ。「平野」と呼ぶには狭いので気が引けるが、山や谷でない緩やかな場所という意味である。清水平野は、古代からあったものではなく、巴川などの河川が上流から運び込んだ土砂の堆積と、海岸の隆起によって造られたものだという。縄文や弥生時代など古代の遺跡が発掘される場所の多くが、丘や山麓であることが、その証拠である。

秋葉山は祭りで賑わう表側とは別に東側からの石段がある。石段の正面には矢倉神社が見える。子どもの頃遊んだのは、この石段の周りだった。雨の合間に秋葉山に登った。海抜で数十メートルの高さだが、清水平野が目の前に広がる。今はビルなどで視界が遮られているが、半世紀前までは三保の松原までしっかり見通せたかもしれない。 清水にはたくさんの神社仏閣がある。平地にあるもの、秋葉山や鹿島神社のように、山頂や山麓に社が造られているもの、その違いは何だろうかと気になり始めている。たまたま、そこに山があったということなのか、権威付けのために高台を選んだのか、近隣を監視する高所が必要だったのか・・・。 現場に足を運ぶことで、見えてくるものがある。今年の秋は、高台にある神社仏閣を探訪してみようと思う。

清水駅の東側、ホームから見える港が「江尻船たまり」である。数日前までの酷暑が嘘のような涼しい空気を感じるようになった。ただ、大雨のせいだろうか、湿度が高く秋の気配とは思えない。雨が小降りになると、蝉の鳴き声が小さく聞こえる。夏の盛りには騒音としか思えなかった鳴き声が、今は夏の終わりを悲しんでいるよう聞こえる。 8月もあと一週間となった。31日の日曜日は袖師の町民大会が開かれる。正式名は袖師地区体育大会なのだが、「町民大会」と呼ぶ。旧庵原郡袖師町の歴史が、こんな所で途絶えることなく続いている。

子ども頃「鉄の塊が水に浮くんだ」と素朴な疑問を友人に伝えたら、「馬鹿だな、飛行機なんて水に浮くより難しい、空を飛ぶんだぞ」という答えが返ってきて、妙に納得したことを覚えている。

全国各地からこの大会に参加した選手たちは、清水でプレーできることの喜びを感じているという。「サッカーの町清水」の本領発揮ということだろう第22回全国少年少女草サッカー大会が8月15日から19日までの予定で開かれている。 日本平サッカー場をはじめ市内の学校など37グランドを会場に、男子256、女子32の計288チームが参加している。 参加者6000人の大会を支えるのは地元ボランティアである。 競技運営や各会場の設営は育成会が中心となり、試合の審判は4級審判員の資格を持つ地元の高校生、試合記録は中学生が担当する。高校生には審判員の育成と、中学生にはボランティア体験を大会のなかに盛り込んでいる。 お盆休みが終わってからも続く大会に休暇を取り、ボランティアで参加することは、並大抵の苦労ではないと思う。たくさんの人たちの熱意で大会が支えられている。

例年は辻小グランドが会場になっていたが、今年は体育館工事の関係で一中が会場になっていた
清水南高郷土研究部・清水鉄道遺産保存会が主催した、清水港線ガイドウォークに友人達と参加した。
朝8時30分、清水駅東口に集合し、保険料と資料代の200円を払うと領収書を出してくれた。カラー印刷の資料にはたくさんの写真と地図が掲載され、主催者の意気込みを感じる。
自己紹介をして、清水港線跡の遊歩道を三保に向って歩き始める。「資料の写真を見てください」とリーダーが写真の番号を指示し、今の姿との違いを説明してくれる。廃線から24年になるが、よく見ると沿線には往時の面影がまだ残っている。
予定では清水駅から三保駅まで線路跡地や引込線を歩き、塚間から水上バスで清水波止場に戻り、フェルケール博物館を見学して解散だ。
当日、配布された資料には、愛好家から提供された清水港線の写真が、歩く道順に沿って掲載されている。往時の写真と現在の姿を比べながら説明が続く。
道路を斜めに横切っているアスファルトの境目を指さし、引込線があった場所を説明してくれた。線路跡を何度も歩き、清水港線の痕跡について熟知している高校生の説明に聞き入ってしまう。
巴川の可動橋跡を見てから、鉄道岸壁に出た。岸壁の引込線から荷役が行なわれた場所だ。線路の面影はないが、「鉄道岸壁」という名前は健在だ。久しぶりに見た夏姿の富士山が美しい。
巴川駅の跡地、冨士見埠頭の引込線、村松に保存されている静鉄の市内電車と清水港線の客車を見て、折戸駅、三保駅に向う。車両は道路の排気ガスや海から塩気の影響もあって傷みが進んでいる。
「このままでは朽ち果ててしまいます」
清水現代史の証人ともいえる、これらの車両を産業遺産として保存したいと、若者たちが熱く語った。
三保駅に着いたのは、12時を回っていた。出発から3時間半。駅跡に作られた広場に涼しい風が吹いていた。日本軽金属の引込線跡を見て、塚間の渡船場に向い、12時40分発の水上バスに乗る。
波止場からフェルケール博物館に向う。1階に展示してある港の航空写真を食い入るように見つめ、今日歩いた道筋を確認する。パネルの写真は、これまで何度も見たことがあるはずなのに、今日は見方が違った。冷房の効いた博物館のなかで、炎天下の足跡を確かめる作業は楽しい。
案内してくれた高校生のメンバーと一緒に、テルファーを正面に見るドリプラのテラスで昼食をとった。清水港線が走っていた時代を知らない若い世代が、清水の産業遺産を後世に伝えることの意義を静かに語ってくれた。
今日のウォーキングは、今年の夏一番の思い出になったと思う。案内してくれた高校生に改めてお礼を言いたい。お疲れさま、そして、ありがとう。
炎天下に投げ釣りをしている人がいた。時々大きく振られる釣り竿が、太陽に挑んでいるかのようだ。猛暑というより、酷暑と言いたくなる日が続いている。それでも、窓を空けたまま寝ていると、夜明け前の涼しさに目が覚める。そんな時、暦の上では秋なのだと思う。 2008年の夏を、何年か後に振り返った時、キーワードになるのは北京オリンピックと、ロシアのグルジア侵攻だろうか。

夕方、港橋方面に用事があって出かけた。冨士見橋の中央で、夕日が川面に反射しキラキラ輝いている様子をぼんやり眺めていたら、パシャというボラが跳ねる水音が聞こえた。巴川にボラは欠かせない。巴川の灯ろう流しの翌朝、たくさんのペットボトルが浮んでいたという話を聞いた。灯ろう祭りにはたくさんの人が集まっていた。その中の一握りの人たちが夜陰にまぎれて巴川に棄てたのだろう。 緩やかであっても、巴川の流れは駿河湾に続く。無数のペットボトルが、海に漂っていると思うと、祭りの感動が少し薄くなった。身近な川や海を大切にする気持ちを、どうやって育てるのか、まちづくりの根幹が問われているような気がする。

辻小グランドの一部に仕切りをつけ工事車両や資材が置けるようにしてある。この広さだと、草サッカー大会では使えないかもしれない。3月から始まっていた一中の体育館建替工事に続いて、辻小体育館の建替工事が始まった。 どうやら国からの助成金による耐震工事らしい。ここだけでなく、三保第一小、三保第二小など清水のいくつもの学校で工事が始まっているという。 我が家が所属する自治会組織では、二次避難場所が袖中体育館となっている。東京オリンピックの頃と同じような姿をしている体育館が、避難場所として機能するのか不安になる。 学校の体育館は放課後から夕方までは部活(昔は、クラブ活動だったが、昨今はブカツと呼ぶ)が主役だが、夜は社会人のバレーボールやバトミントンで賑わう。 体育館の工事により、利用できる施設に希望者が殺到し、予約を取るのに苦労しているという話を聞いた。なんでもそうだが、一斉に行なうと効率はよいかもしれないが、その反面で不便を感じる人も多くなる。 辻小体育館の二階には、学童保育の部屋(というよりスペース)があった。今回の工事で、別の部屋に移動したと思うのだが、少し気になる。

一中体育館の現場では、今までの基礎を壊し、新しい基礎を作る工事が行なわれていた。

清水港線の廃止を記念して発売されたセット切符のカバー。このなかに乗車券や入場券など5枚が入っている。清水駅と三保駅までの清水港線に最後の列車が走ったのは1984年3月31日のことだ。この日、最後の姿を写そうと、たくさんの人が沿線でカメラを構えていたのを覚えている。塚間に続く踏切りで、一旦停止義務違反の反則切符を切られ「三保で最後の踏切り違反」と冷やかされた人もいる。

「おわかれ乗車券」の表と裏。清水〜三保が大人140円、小人70円、入場料が大人120円、小人60円だった。西折戸の高校に通っていた頃、下校時に何度か乗ったことがある。今では、どの高校も自転車通学が圧倒的だと思うが、当時はバスの方が多かった。自転車の代金より、バス定期の方に割安感があったのだと思う。バスが清水駅前〜西折戸40円の時代だった。 西折戸からだと、清水港線の折戸駅は少し遠回りになるが、列車内で販売する大判の切符を目当てに乗った。 今でも一部の路線では使われているらしいが、時刻表の路線図のようにたくさんの駅名と路線が印刷された薄手の大判切符である。下車時に改札で渡してしまうから手元には残らないが、この切符見たさに乗ったようなものだ。静鉄電車も車内販売は大判切符だった。

清水港線の廃止を記念して発売されたセット切符のカバー裏側。8月16日に、南高郷土研究部が「清水港線ガイドウォーク」を企画している。清水の産業遺産である「清水港線」を、現役の高校生が案内する。歩きながら、自分の高校時代にタイムスリップできるかもしれない(猛暑のなかの妄想かもしれないが・・・)そんな期待が膨らんできた。 ●清水港線ガイドウォークへのお誘い≫