きょうの清水 7月30日
朝からうだるような暑さだった。「ひと雨ふれば涼しいのにね」という願いが通じたのか、午後に雷雨がやってきた。夕方には空も明るくなり、久しぶりに見る夕日に見とれていたら、矢倉神社から太鼓の音が聞こえてきた。
太鼓の響きに誘われるように、矢倉神社に出かけてみた。境内に櫓が組まれ、地元の人たちの輪踊りが始まるところだった。友人が来ているはずだと、辺りを捜しても居ない。「そんなはずはない」と櫓を見上げたら、法被姿で太鼓を叩いていた。ばち捌きが堂に入っている。

矢倉という地名の由来は、大化改新に遡る。大化改新によって、駿河国(するがのくに)が作られた。駿河国は、中央政府から役人が派遣された地方組織だ。その下に郡が作られた。庵原(いほはら)も、郡のひとつだった。庵原軍団の弓矢などの武器庫が「矢倉」と呼ばれた。矢倉神社は、武器庫を守るために創建されたものといわれている。
7月20日、ドリプラの観覧車がオープンした。朝6時頃から順番待ちの行列ができたという。
夜7時から30万個のLEDが点灯されると聞いていたので、6時半ごろにドリプラに向った。連休ということもあって、親子連れや若い人たちで賑わっている。よく見るとデッキの海側に立って、観覧車を見上げている。みんな思うことは同じで、点灯の瞬間を待っているようだ。
7時少し過ぎ、観覧車が光り始めた。赤や青の光がめまぐるしく動く。発光ダイオードの特性なのだろうか、眩い光ではない。それでも、正直言って戸惑いを感じた。派手さに慣れていなのかもしれない。

ベルジュ35があった場所は、駐車場になっていた。観覧車のイルミネーションを見ていると、ここにあった建物の記憶が霞んでゆく。

写真の場所は稚児橋。灯ろうまつりと書かれたTシャツの若者たちが、灯ろうに火を入れ川に流してゆく。左端の炎は送り火。右端の明るい場所は特設ステージ。稚児橋では江尻と入江の両側から流される。この他に、静鉄鉄橋近く、万世橋、港橋からも流される。16日、巴川の灯ろう流しが行なわれた。 夕暮れの巴川に、蝋燭の灯りと巨大な送り火が揺れている。満潮と重なり、流れさることを拒んでいるかのように、小さな灯りがゆっくりと下流に向ってゆく。 環境問題との絡みで、流された灯ろうは下流で回収され、駿河湾に流れ出ることはなくなった。巴川の灯ろう流しは、250年以上の歴史をもつという。流された灯ろうは、沼津の大瀬崎(尾瀬崎)に着くと信じられていたから、ご先祖様も時代の変化に苦笑しているかもしれない。

西久保から港橋に行くルートは三つある。湾岸道路から入るルート、西久保車庫前から、さつき通りを直進するルート、柳橋から浜田踏切りを渡り本町から入るルートである。
急いでいる時は車で湾岸道路だ。信号が少ないから早い。賑わいを感じたい時は、さつき通りがいい。自転車なら浜田踏切りルートが楽だ。
自転車で本町の実相寺の前を通ったら、みなと祭りの提灯の取り付けが始まっていた。車なら通り過ぎるしかない場面だが、自転車の利点でシャッターを押すことができた。
さつき通りの両側にも、提灯が並んでいた。清水橋にも付けられているはずだ。こうなると、車の時も湾岸道路ではなく、さつき通りを走りたくなる。
明日の16日は、灯ろうながし。20日は観覧車がオープン。みなと祭りの総踊りまで、あと半月になった。

7月13日と14日、龍雲院で西久保盆踊りが開かれる。広い境内の中央に櫓が組まれ、太鼓の音が響く。昼間の蒸し暑さが残っているが、提灯の灯りと踊りを見ていると、夏が来たことを実感する。
踊りは、地踊りと呼ばれる昔からのものと、かっぽれの組み合わせだ。かっぽれが流れると、子どもたちや若者が踊りの輪に加わり、次郎長さんや日本平音頭になると、揃いの浴衣が輪の中心になる。
地踊りのなかでは、「ソデシソデシデ エエヂャンカ」と唄う袖師音頭が好きだ。もちろん、この地区でしか流れない踊りだ。
♪袖師音頭(昭和30年、若杉雄三郎作詞)
ハア 富士の雪さへよ 富士の雪さへ、袖師をながめ
ソーダソーダ ナントショノショー
とけて ゆきたや あの浜へ
キテゴーキテゴー エエヂャンカ
ソデシソデシデ エエヂャンカ
オマッチャ ナニシタ ナントショノショー

●袖師音頭の歌詞は、こちらに掲載しています>清水のお盆は、7月と、8月の旧盆に分かれる。小島や両河内が8月で、その他が7月のようだが同じ地区内でも7月と8月があるという。はっきりした境目はないのかもしれない。 旧暦の時代には、どこも同じ時期に行なわれていた行事が、新暦の登場で、7月と8月に分かれた。新暦が始まったころは、ほとんどが農業だった時代なので、宗派の違いというより、繁忙期かどうかということが選択の分かれ目になったのかもしれない。


観覧車は7月20日から営業が始まる。ベルジュ35の解体工事が終わったら、駐車場になるのだろうか。ドリプラの観覧車があと2週間で営業を始める。 客が乗るゴンドラが全部付けられた鉄輪は電飾工事に入るようだ。観覧車の設置にあわせて行われているベルジュ35の解体工事も、あと少しで完了する。。

35という数字は、ここの場所が北緯35度から付いたという。港の倉庫を改装したレストランが「清水らしい」と話題になった。解体工事が進み、原型を思い出すことすら難しくなったベルジュ35の瓦礫を見るのは寂しい。 それまで、さほど愛着を感じていなかった店が閉店されることを知ると、急に常連のような気分になって、消え去る店に特別の感情が生まれてしまう。廃線が決まった途端、ローカル線に客が集まるのと同じだろう。 廃止が決まる前に、足を運んでいれば黒字にすることは難しくとも、最後の日を少し遅らせることは可能だったかもしれない。「気休めにもならない」と怒られそうだが、解体工事が始まると、もう何もできない。そんな自責の念が「疑似常連」を作り出してしまう。たぶん、そうだろう。

開業時には、御殿場で行っているような地ビールを、ここで製造販売する計画もあったが、実現しなかった。
七夕まつりの初日、駅前銀座商店街に出かけてみた。
平日の夕方ということもあって、制服姿の高校生が目立つ。浴衣姿は中学生だろうか。明るい笑い声が祭りを盛り上げてくれる。
2週続けて週末に天気が崩れた。先週の雨では、大雨洪水警報が出た。金曜日も未明に大きな雨が降ったが、日中は晴れた。夕方になっても、湿度が高いせいか蒸し暑い。こんな天気の時は、外に出て夜風に吹かれるのが一番だ。
七夕まつりに雨はつきものだが、この週末は晴れが続いて欲しい。

材料は畳に使うイグサなのだろうか。紙飾りとは違った質感に、足を止めて見上げてしまう。
1年の半分が終わる6月30日、小芝神社で「茅(ち)の輪祭」が行なわれた。
話には聞いていたが、小芝さんの輪くぐりに出かけるのは初めてだ。小芝さんまでは、家から歩いても20分ほどの距離だが、氏子の領域が違うと、祭りも遠い世界の話になってしまう。
年齢による厄は、ほとんど気にならない性分なのだが、「半年分の厄払い」という言葉に、現実的な重さを感じて、家族を誘ってみた。誘われた側にも厄が溜まっていたらしく、二つ返事で出かけることになった。
夕方6時過ぎ、外はまだ明るさが残っているが境内は提灯の灯りがきれいだ。綿菓子やお好み焼きの出店に浴衣姿の子どもたちが集まり、夏祭りの気分になる。

神殿に拝礼した時に、宮司さんから小さな茅の輪を頂いた。「いくつでもいいですよ」と言われたので、家族の人数分を頂いてきた。お守りのようなもので、小さな輪が、これから半年の厄を封じこめてくれる。石製の鳥居を潜ると、茅で作られた大きな輪が立てられている。これをくぐるのが厄払いだ。初めてなので、参拝してから賽銭箱の横にいた宮司さんに作法を聞いた。 神殿に向って左足から輪をくぐり左に回る。次に右足からくぐり右に回る。最後に、左足をもう一度やるのが作法だ。輪の上空から見ると、八の字に人が動くことになる。
「小芝八幡宮」が正式名だが、小芝神社、小柴さんと呼んでいる。梅蔭禅寺のことを梅蔭寺と呼ぶのと同じだろう。
小芝さんには、サッカー札がある。
すぐ近くの魚町稲荷には清水サッカー発祥の地を記念するモニュメントが置かれている。小芝神社と魚町稲荷は同じ宮司様が兼任されていることから、サッカー札が登場したのかもしれない。サッカーボールの御札に書かれた願いを読むと、サッカーと江尻の深い繋がりを感じる。
巻き網漁船の事故を伝えるニュースを見ていた、大正生まれの父が、「あそこは怖い場所だ」と呟いた。聞けば、事故が起こった海域は、昔から船乗りにとって怖い場所だという。
結婚後に、出光の内航タンカーに乗船するようになったが、それまでは西伊豆の漁船に乗っていた。カツオ一本釣り、棒受け網など、いろいろな魚を追いかけてきた。船を呑み込むような大波も何度か経験したという。波に叩かれ怪我をして何ヶ月も船を降りたこともあった。
戦前の話だが、荒れる漁場を目指して出かける船団があったという。「荒れた海は、魚が沸いてくる」と、危険を承知で船を出し、近場の海で漁をする船の何倍も稼いだ。当然、事故も多かった。
何十年という時が流れ、船や漁具は改良を重ねてきた。しかし、「板子一枚下は地獄」という言葉は、昔と変わらない。行方不明のみなさんが、元気な姿で救出されることを、祈らずにはいられない。
●画像は次郎長三国志公式ホームページよりNHKの木曜時代劇「次郎長・背負い富士」が放送されたのは一昨年の今頃だった。中村雅俊が演じた次郎長は、清々しかった。 あれから2年、今度は銀幕に次郎長が登場する。次郎長は中井貴一、お蝶は鈴木京香、黒駒の勝蔵が佐藤浩一、監督はマキノ雅彦(津川雅彦)である。

劇場で前売券を購入すると、「次郎長三国志」と染め抜いた手ぬぐいが付いてくる。

その昔、稚児橋から東海道が「く」の字に曲がる角までを通(とおり)一丁目と呼ばれていたという。稚児橋を渡って入江商店街に入ると、朝顔の花が咲いていた。スルガ銀行のATMがある交差点の少し手前である。ここの朝顔は、秋の終わり頃になっても花が咲いているのは知っていたが、こんなに早く咲くとは知らなかった。

入江商店街の朝顔は12月頃まで咲いていた記憶がある。ここ以外でも冬に咲く朝顔を見たことがある。同じ種類だと思うが、冬でも咲いているのは青い花だ。平安時代の巴川は、現在の国道1号線の「巴川橋」の辺りが河口だったという。今よりずっと広い川幅の巴川が駿河湾につながる河口は、海が陸に深く入り込んでいた。それが「入江」の由来である。まだ町としての賑わいはなく、入江郷や入江庄と呼ばれていた。 入江町という地名が出来たのは東海道が整備されてからのこと。それまでは毎月3回、7の日に市が開かれ「入江七日市場」と呼ばれていたが、賑わいと商家の集積から「町」と呼ばれるようになったという。平安時代から室町、戦国という時代の中に入江の町が登場する。
●12月1日の朝顔≫ ●9月21日の朝顔≫

浄瑠璃や歌舞伎の演目で名高い「朝顔日記」の主人公深雪の墓が法岸寺にある。「朝顔日記」については玉川楼さんのサイトに詳しく書かれている。
ドリプラの観覧車工事が進んでいる。支柱の部分に続いて、輪の部分の内側が完成している。水色の輪の外側に白色の輪が広がるようだ。
水色と白の組み合わせは、清水港の色彩計画に合わせているのだろう。対岸に見える火力発電所の煙突と同じだ。
小芝神社の入口に茅の輪祭の案内が貼られていた。「輪くぐり」である。一年の半分を過ぎた日に、茅草(かやくさ)で作られた大きな輪をくぐることで、半年間の疫病や罪穢が祓われるという。
その昔、小芝神社の西側に江尻城があった。境内には、それを説明する教育委員会の説明看板もある。
徳川家康に降伏した江尻城主穴山梅雪武の時代に想いを巡らしながら、茅の輪くぐりに出かけてみようと思う。

1568年、駿河に侵入した武田信玄が築城を命じ、翌年「江尻城」が造られた。場所は、小芝神社の西で、現在の江尻小学校になる。江尻城を小芝城と現す書物もある。
まちのあちこちで、祭りのポスターを見かける季節になった。6月14、15日の水神さんの祭りから、8月3日のみなと祭り花火大会まで、清水のまちは祭りで盛り上がる。

今年のみなと祭りは、これまでスルガ銀行前に置かれていた「神殿」が、清水駅東口広場に移動し、名前も「心殿」に戻る。初代「心殿」は清水橋の中央に置かれていた。
軒下のプランターに植えたナスの苗に花が咲いている。
「親の意見となすびの花は千に一つの無駄もない」ということわざの通りで、ナスは咲いた花の数だけ実がなる、素人菜園の優等生である。
とりたてのナスを薄く切り、塩をまぶし手で揉むと水が出てくる。ナスがしんなりしたら、水でさっと洗い塩気を取る。拳で絞って余分な水を飛ばし、刻んだ青じそ、針ショウガを加え出汁醤油で合えると、即席の漬物となる。
15日の夜は水神さんの花火が家でも聞こえた。「水神さんで浴衣を出し」と言われるように、清水に夏の到来を告げる祭りだ。半月後には七夕まつり、その次はみなと祭り・・・、一年経つのは早いもんだ。


社名は変わっているのだが、海に面したサイロには豊年という懐かしい名前が残っている。水神さんの祭りを知らせる打ち上げ花火を海の上で聞いた。土曜日、伊豆の本家に用事があり日帰りで出かけた。清水と土肥を往復する駿河湾フェリーが就航してから、ほとんどフェリーを利用している。本家は土肥からバスで1時間弱かかるが、変化にとんだ西伊豆の景色を眺めているとあっという間に着いてしまう。見慣れた景色なのだが、何度見ても飽きない。 土肥から清水に帰って来るときも同じで、興津のコンテナ埠頭から始まり、袖師、江尻、三保と見慣れた景色が近づくと、デッキに出て見入ってしまう。何度見ても飽きない景色が、故郷の姿なのかもしれない。 父と母が生まれ育った西伊豆、そして家族として私が育った清水。二つの故郷を持っている私は贅沢者かもしれない。

写真中央の青い塔と白い支柱が工事中の観覧車。完成したら巨大な輪がイルミネーションで輝く。観覧車のすぐ左がシートで覆われ解体中のベルジュ35、更に左に見える建物は港橋横のマンション(キララシティコート)。