きょうの清水 4月17日

1957年(昭和32)1月、下田ドックで船首部分を改装中の第六光安丸。赤坂ディーゼルの160馬力を積んでいた。父宛に今年も「光安会」の案内が届いた。「光安会」は、出光興産清水支店に所属していた小型タンカー「光安丸」の乗組員を中心にした会社のOB会である。毎年一回集まりが持たれている。これまでは西伊豆の堂ヶ島が多かったが、今年は焼津で開かれる。
第六光安丸は総トン数80トンと小型だったが、第五光安丸は250トンだった。その後に造られた十五光安丸は500トンである。△のなかにSIの文字が見えるが、これが出光のマークだった。SIは社長のイニシャルである。袖師船溜りに、出光興産の油槽所があった。清水支店に所属する出光の小型タンカーが何隻があり、千葉県五井や瀬戸内海の徳山などにある出光の大型基地から油を運搬していた。 船の名前は「光安丸」である。終戦直後の1949年(昭和24)に、私の父が出光の社員となり、「光安丸」の乗組員となった。それまで、生まれ育った西伊豆で鰹船に乗り、戦争中は貨物船で南方の島々を移動している。
「光安会」の案内が届いた翌日、湾岸道路沿いにある出光の油槽所を訪ねてみた。コンクリートを剥がす工事が行なわれていた。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、記憶が削り取られるような痛みを感じた。
出光の文字が微かに残っていた≫
横砂の廬崎神社太鼓保存会のみなさん。今年で19回目となる「庵原川桜まつり」が開かれた。散り始めるかと思われた桜も満開で、暖かな日差しに誘われ、大勢の人たちで広場が賑わった。 旧清水市時代、第三次総合計画で19ある連合自治会ごとに、まちづくりのプランをまとめた。袖師地区でもいろいろなプランが作られたが、現在まで続いているのが「庵原川桜まつり」である。

銭太鼓のみなさん。トラック2台をつなげたステージの上では袖小の生徒も参加した。正式名称は「袖師スポーツ広場」だが、地元では、袖師町4区にあることから「4区グランド」の方が通りがいい。元々は私有地を借りてグランドとして利用していたたものを、市が買い取った。買い取り交渉では苦労したという。

賑わった桜まつりの翌日から大雨が降った。嵐のような雨が止んだ後、4区グランドは花びらで埋まっていた。昭和40年代、私が中学生だった頃、この広場は砂利置き場だった。「砂利山」と呼び、よく遊んだ。パンクしたゴムのバスケットボールを丸めてラグビーボールのような形にしてラグビーごっこをした。 転がり落ちる時の、砂利の温かい感触は、今でも覚えている。立入禁止の柵の記憶はない。あったけれど、無視して遊んでいたのかもしれない。おおらかというか、大雑把な時代だった。

袖師小学校の桜。校舎の耐震工事も終わって、すっきりした新学期を迎える。新年度が始まった。 役所や学校の年度が4月からになったのは明治時代からだと思うが、なぜ4月にしたのだろうか。この時期、北海道から地吹雪のニュースが伝えられた。まだ冬が終わっていない北国のことを考えると、5月スタートという考え方があってもよかったと思う。もっとも、文明開化の時代には北海道は未開拓で、現代の感覚とは違っていたのだろう。

袖師中学校の桜。今年度はあちこちの学校で体育館の耐震工事が始まる。一中は工事が始まり、辻小も始まるという。一中や辻小より古い袖中の体育館の工事予定が気になる。東京の染井村で職人たちにより品種改良されたソメイヨシノが全国的に流行ったのは、江戸から明治にかけてだという。満開の桜に合わせて新年度を4月にしたとすれば、為政者の風流に拍手を送りたいが、憲法発布の時点で、ソメイヨシノは全国制覇していなかったような気もするので、満開のソメイヨシノのイメージは後から生まれたものかもしれない。

東高の桜。高校入試の方式が変更され、前期後期制を知らない新入生が入ってくる。あと数日で、新しい顔ぶれがのれんをくぐる。3月最後の日曜日に、車で日本平に上った。道路の両側に咲く桜が、白や淡い色、濃い色などさまざまな色で咲いていた。市立病院近くの道路に咲く桜も見事だったが、個性を競い合う桜もいいものだ。

6日の日曜日は、袖師地区の最大イベント「庵原川さくら祭り」が開かれる。桜吹雪のなかで総踊りが楽しめそうだ。

明治22年に作成された2万分の1の地図に葬列のルートを書き加えた「まちの思い出」に書かれた次郎長の葬列が歩いた道筋を、明治22年の地図に描いてみた。 緑色で描いた道筋をそのままに、ALPSLABが提供している現在の地図に重ねてみたのが下図である。明治22年の地図は測量の精度に甘さがあるらしく、同じように重ならない部分もあるが、現在の道路から見てどこを歩いたのか判ると思う。

●ALPSLAB LOUTEで葬儀の道順を描いてみた≫「次郎長の葬儀」でどの道を歩いたのか、道筋を調べながら、波止場から梅蔭寺まで何度も歩いてみた。初めての道もあれば、車や自転車で何度も通った道もある。 知っているつもりの道でも、次郎長の時代を想像しながら歩くと、周囲の景色が新鮮に感じた。この道を次郎長や子分たちも歩いたのだろうかと思い浮かべるだけで、足取りが軽くなった。下清水八幡宮の大楠を見上げていると、歴史の中を歩いているような気分になる。
地図の左下、三角印のスタートボタンをクリックすると道案内がいごきます。

明け方の巴川河口付近。羽衣橋の下に釣り船が集まっている。次郎長の葬儀には数千人の参列者が行列を作ったという。 その日の天気はどうだったのだろうか。波止場を何時に出発して、最後尾が梅蔭寺についたのは何時だったのだろうか。誰が葬列に加わったのだろうか。沿道で清水の人たちはどんな気持ちで見送ったのだろうか。興味は尽きない。

春の清水港。風はまだ冷たいが、波の色、空の色は春だ。大きな声では言えないが、次郎長を知ることが、幕末から明治にかけての清水の歴史を知ることだと気がついたのは、つい最近のことだ。 NHK大河ドラマで「篤姫」は京都から江戸に向い東海道を進んだ。府中に宿をとり、稚児橋を渡り江尻で休息したのかもしれない。次郎長は、そんな時代に生きていた。 自分が、いま歩いているこの道を次郎長や山岡鉄舟も歩き、風になびく下清水八幡の大楠や遠くに見える竜爪山を眺めていたのかと思うと、歴史に生命が吹き込まれたような気がする。

梅蔭寺にある次郎長の墓碑。揮毫は榎本武揚である。
波止場の「船宿末廣」を出発した次郎長の葬列は港橋を渡り本町から上町に入り、下清水八幡神社に向った。
下清水八幡神社の北側は「牛道」と呼ばれる古道が残っている。「牛道」は各地にある呼び名で、文字通り牛が荷役で使われた道路である。馬が使われた街道筋には馬を供養する「馬頭観音」が祭られている。牛と馬の使い分けは、運ぶ距離の長短と荷物の重さなのだろうか。
「牛道」を西へ進むと、南北へ続く「久能街道」とつながる。現代の「久能街道」は150号線の海岸沿い、いちご狩りで賑わう道路を指すが、江戸時代は違った。入江の「いちろんさん」の三叉路から入江岡駅を跨ぐ高架を通り、上清水に続く道が「久能街道」である。
入江の三叉路を西に進むと駿府へ、東へ進むと稚児橋から江尻本陣へ続く東海道だ。入江は街道の分岐点だった。
清水市教育委員会が小学校の副読本として配布した「清水のむかしガイドマップ」には「久能街道」について次のように書かれている。
「久能街道は海沿いの道」だったことを今に伝えているのが「秋葉山常夜灯」である。火伏せの神として秋葉山さんへの信仰は厚く、参拝者の目印としての常夜灯がいくつもあった。下清水の常夜灯は「沖からもよく見え、漁師の目印になっていた」という。
久能街道を南に進むと、梅蔭寺南側につながる広い道に出るが、その手前に梅蔭寺に向う狭い道がある。
この写真を撮った時、自転車で通りかかった年配の人に梅蔭寺の昔の入口を尋ねたら「コインランドリーがあるら。そこを曲がった道だよ」と教えてくれた。まちの変化を体験し、変化を語れる人たちがたくさんいる。
「誰も書かなかった清水次郎長」のなかで江藤惇氏は、次郎長は土葬されたと記している。また、縦棺と呼ばれる棺桶を担いでいたという伝聞もある。
次郎長の墓は、1952年(昭和27)次郎長60回忌の際に、一般墓地の中にあったものを現在の位置に移動しているが、その時にも土葬と火葬だったのかはっきりしなかったらしい。
ただ、梅蔭寺の南側(現在の入口側)には火葬場があったというから、梅蔭寺で火葬したと考えるのが自然かもしれない。
さて、梅蔭寺まで到着した。次回は、まとめに入りたいと思う。
上2丁目4-8付近。道路名は「主要地方道清水富士宮線」である。「まちの思い出」に書かれた次郎長の葬列は、波止場の「船宿末廣」から港橋を渡り、本町へ入った。 明治22年の地図を頼りに、実相寺の入口を曲がり、本町を北に向って歩く。本町郵便局、石野源七商店を過ぎると右手に、お屋敷の塀が続く。道は東西への道とT字に交差している。道路を境にして南側が本町、北側が上2丁目となる。右手(東側)へ進むと、すぐ冨士見橋だ。 次郎長の葬列は、本町から下清水八幡へ向っている。明治22年の地図では、道は本町から左折して、すぐに右折している。 深沢種苗園芸の先に一方通行の標識が見える。ここを右折する。

上2丁目5-14付近曲がるとすぐ右手に提灯で有名な「びら一商店」がある。少し歩くと、お茶屋さんの「伊藤誉香園」がある。直進すれば、万世町から記念塔につながる広い道路にでる。 「伊藤誉香園」を左折し、西に向うと真正面に下清水八幡の大楠が見える。

上2丁目8-1付近本町から上町へ歩き、下清水八幡の大楠を、住宅の屋根の上に見たとき大きな木だと思ったが、境内で見上げた時の、圧倒的な存在感はなかった。でも、次郎長の時代、周囲に家があっても、平屋で屋根の高さも低かったと思う。波止場の末廣からも大楠が見えたかもしれない。

下清水八幡神社は、清水町八ヶ町と下清水の総鎮守として、航海安全の船玉社を祭ってある。ここまでの道のりを、明治22年の地図上に書いてみた。今では遠回りになる道順だが、次郎長の時代には他に道が無かったことが判る。

明治22年の地図に、次郎長葬列のルートを書き入れてみた。「ふるさとの思い出」には、「わしら子供は、花かごからばらまかれる穴あき銭を拾ったんですよ」と記されている。現代でも高齢で天命を全うした方の葬儀では五円玉が付けられる。 会葬者は地元の人に加え、明治政府や旧幕府の人たちや、侠客として縁のある人たちが関東、三河など近郷近在から集まり、その数は数千を超え、葬列の先頭が梅蔭寺に着いても、末尾は波止場にいたという。 穴あき銭を蒔きながらの行列は、黒澤明監督が「夢」のなかで描いた、『水車のある村』の葬列のように賑やかだったのかもしれない。 次回は、下清水八幡神社から久能街道へ歩いてみる。

次郎長の時代の風情を今に伝える廻船問屋鈴木家の屋敷と土蔵。江崎惇著「誰も書かなかった清水次郎長」(スポニチ出版・1979年)によれば、雨のなか畑仕事をした次郎長は大熱を発し、40日余り床に伏した。そして、1893年(明治26)6月12日の明け方危篤となり、畳の上で大往生を遂げた。 葬儀は6月15日に行なわれた。葬儀の仕切りは「当目の岩吉」だった。

本町にはいくつもの廻船問屋があった。清水港を支える企業集団である。そこから、上町、本魚町、袋町など清水八ヶ町の中心として「本町」と名乗るようになったという。「まちの思い出」に記された古老の話では、本町から下清水八幡を通って梅蔭寺に向っている。明治22年発行の地図から、葬列が歩いたと思われれるルートを推測してみよう。

明治22年測量、同25年国土地理院発刊の2万分の1地図に地名などを加筆した。寺の卍は現在と同じだが、神社の鳥居マークが違っている。美濃輪稲荷の南側に幕府の米蔵が記されている。港橋を渡り、次郎長通り商店街の入口を過ぎ、実相寺の辺りで道が北側に曲がっている。本町郵便局、石野源七商店を過ぎ、お屋敷の塀沿いに行くと、その先がT字路になっているのは、現在と同じだ。 地図には富士見橋が描かれている。橋の完成は1885年(明治18)。この地図が発行される4年前になる。港橋の次に架けられた

本町には、昔の清水の佇まいが残っている。港を中心に発達した清水の中心という伝統と誇りが守られているのかもしれない。下の地図は、昭和3年の都市計画図である。大正13年に江尻町など6ヶ町村の合併により誕生した清水市は、港湾の整備と共に近代的な道路建設に着手している。次郎長の時代、港が波止場に移り港橋が架けられたのと同じように、清水港の近代化で大型船が入港するようになり道路整備が急がれたのだろう。 太く着色された計画線は、現在の道路とほぼ同じである。記念塔の5差路も、この計画によるものだということが判る。 よく見ると、鉄道の北側は、計画線以外の道路が、ほぼ現在と同じなのだが、線路の南側は久能街道など江戸時代からの道沿いに人家があり、その回りに田畑が広がっていたことが判る。線路南側の近代化は昭和に入ってからだった。
「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 清水」川崎文昭編・国書刊行会発行 1979年発行(清水中央図書館蔵書)。編者の川崎文昭氏は、清水市史の編纂委員であり、静岡新聞社刊「町名の由来」(1979年)では清水市分を担当している。都市計画図を拡大してみた。明治22年の地図とほぼ同じ道が描かれている。 次郎長の葬列(2)では、港橋から本町を歩いた。次回は、本町から下清水八幡へと歩いてみる。

地図では本町の表示の左側に◎印がある。清水町役場だったものが清水市役所と看板を変え、昭和6年までここにあった。

梅蔭寺にある榎本武揚が揮毫した次郎長の墓碑「まちの思い出」という本がある。1977年(昭和52)から7年間、「広報しみず」に掲載された記事を清水市総務部広聴広報課が本にしたものだ。 そのなかに「次郎長の葬儀」という一文がある。「広報しみず」に掲載されたのは昭和53年3月15日。思い出を語った方は松井町在住で96歳と記されている。

「船宿末廣」があった場所から港橋を望む。次郎長の時代は遠くの山がはっきり見通せたと思う。次郎長は1868年(明治26)6月12日、74歳で逝去した。浪曲や映画などで知られる侠客の多くは実在したが、その最後は殺害や処刑である。天寿を全うし畳の上で死んだのは次郎長だけだったという。

明治22年の地図。海岸や港湾、そして道路の様子が現在と違うことが判る。今、波止場から梅蔭寺まで行くとすれば、港橋を渡り、実相寺を左に見て直進し、次の信号を左折で柳宮通りに向うだろう。次郎長の時代、柳宮通りはなかった。そればかりか現在ある道路のほとんどが、まだ存在しなかった。田畑や沼地が広がっていたという。 古地図に記された道路と、現代の道路を重ね合わせながら、次郎長の葬列が歩いた道筋を辿ってみよう。(つづく)

江戸時代、巴川に架かる橋は東海道の稚児橋だけだった。幕末から清水港での物流が盛んになり、港の中心は巴川から大型船が入る波止場となった。波止場と往来するため橋が架けられた。「港橋」は港近くの橋ではなく、港のための橋だった。

波多打川近くの清見潟公園の桜は花びらの色が濃いような気がする。早咲き桜の特徴だろうか早咲きの桜が見頃を迎えている。3月になり、朝晩の冷え込みも和らぎ、冷たい風が吹かなくなった。冬の終わりは花粉症の始まりで、これか5月頃まで難儀をする季節でもある。 清水で桜の名所を三つあげるなら、船越堤、大沢川、日本平だろうか。 船越堤は山の遊歩道が整備され、広い公園として散策が楽しめる。だが、池が遊水池として整備され周りに入ることができなくなり、昔の風情を知る者にとっては少し寂しい。 日本平は道路が有料でなくなり、昔からの眺望を手軽に楽しめるようになった。大沢川は散り際が見事だ。花びらが川面を埋める。散り際では、上力町から市立病院にかけての道路沿いの桜も素晴らしい。車が走るたびに桜吹雪が路面に舞う。 開花予想では静岡市は3月24日と発表された。ということは、3月29日から30日が一番の賑わいになりそうだ。入学式の頃は桜吹雪かもしれない。

興津公民館の入口では成人式の記念植樹の桜が咲いていた。

3月8日、中央図書館で開かれた清水郷土史研究会・研究発表には100名近い聴衆が集まった。写真中央が講師の清水郷土史研究会会長山田 司氏3月8日の午後、清水中央図書館で清水郷土史研究会の研究発表会が開かれた。テーマは「数奇な生涯を送った天田愚庵」、講師は清水郷土史研究会会長の山田 司氏である。 演題の通り、明治37年に51歳で病死するまでの天田愚庵の人生は数奇としか言いようがない。幕末から新政府誕生という激動の時代、彼は時代の大波に呑み込まれるのではなく、水切り石のごとく波頭を走り抜けたような気がする。 会場で頂いた資料に愚庵の年譜には、たくさんの人との出逢いが記されている。 19歳で山岡鉄舟、25歳で次郎長に出逢い、39歳の時には正岡子規と高浜虚子が愚庵を訪ねている。その間、神田駿河台のニコライ神学校に入ったり、自由民権運動に加わったり、台湾征伐の従軍など同一人物とは思えない経歴だ。写真師、新聞記者と明治初期には極めて珍しい職歴を持つ。 天田愚庵という名前は、34歳で仏門に入った時の名だ。1854年(安政元年)7月20日、甘田平太夫の次男として生まれた。名を五郎という。父は磐城平藩(2万石)の勘定奉行だった。磐城平藩は奥羽越列藩同盟として新政府と戦った。戊辰戦争である。 戦いのなかで両親と妹が行方不明となる。愚庵は、その後生涯をかけて家族を捜し求める。旅回りの写真師となり各地で消息を訪ねた、巨費を投じて新聞にたずね人の広告を出したこともあった。

【写真左】天田愚庵が26歳の頃、旅回りの写真師だった。【写真右】晩年は正岡子規や高浜虚子らと交流があった天田五郎が山岡鉄舟の縁で次郎長と出逢った4年後には養子となり山本五郎を名乗った。次郎長の息子として富士山麓開墾事業の監督を務めている。出逢った直後から次郎長の武勇伝を書きつづった「東海遊侠伝」の執筆を始め、翌年には書き上げている。「東海遊侠伝」が出版されたのは1884年(明治17)、次郎長の養子になってから3年後になる。本には著者兼出版人として「静岡県平民山本五郎」と記されているという。 「東海遊侠伝」は、講談や浪曲で有名になった「次郎長」の原本である。歴史に「もしも」は禁句であるが、この本が世に出ていなければ、次郎長の名が全国に知れ渡ることもなかったかもしれない。 司馬遼太郎は「坂の上の雲」の後書きで「明治は、日本人のなかに能力主義が復活した時代であった」と書いた。私たちが幕末の動乱期を描いたドラマや小説に心惹かれるのは、人々が新しい社会を目指して目を輝かせている、その熱気が伝わってくるからだ。 2009年秋からNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放送される。大河ドラマとは別枠だが、3年に渡り放送される大型時代劇である。登場人部のなかに、天田愚庵が大きな影響を与えた正岡子規がいる。幕末から明治にかけての時代のなかで、清水の歴史を振り返る材料がまたひとつ増えそうだ。

船橋舎織江の「ゆびまんじゅう」の包装紙に由来が描かれている。晩年の次郎長は子ども好で、店のまんじゅうを次々と指でつぶしては「これじゃあ売り物になんねえずら」といいながら、まんじゅうを懐に子どもの元へ向かったといわれる。

水道局が管理する庵原貯水タンクは外周全体に清水の名物が描かれている。東名高速を東京方面から来て清水インターで降りるとき、この貯水タンクを見るとホッとする。色褪せたとはいえ、広告塔の役割を立派に果たしている。 おぼろげな記憶だが、このタンクに清水の次郎長が描かれている事にクレームがついたと思う。その後、どうなったのかは覚えていないが、今でも描かれているから、一件落着したのだろう。

清水インター料金所の看板清水インターが出来る前の様子を覚えている。袖師中時代の記憶だ。 袖中ではバスケット部に入っていて、練習で山原山をランニングで登ったことが何度かあった。行きは学校から山頂までほとんど休みなしで走り、帰りはハイキング気分でのんびり歩いていた。畑にレンゲの花が咲いていたのを覚えている。 清水インターに来ると、山原山のランニングを思い出す。

あちこちで梅や早咲きの桜が咲いている。寒の戻りで少し冷え込んできたが、季節は春である。

徳川慶喜が撮影した「清水港橋より港内(茨城県歴史館蔵)徳川慶喜が撮影した写真になかに「清水港橋より港内」と題された一枚がある。左側への湾曲と山が写っていないことから河口にカメラを向けていると思う。薪らしき束がたくさん見え、当時の暮らしが伝わってくる。 この写真は、波止場の写真と同じ明治20年代後半という。1878年(明治11)に清水湾に面した波止場が作られ、翌1879年に港橋が開通するまで、歌川広重が描いたように、清水港は巴川河口付近と、それに続く海岸だった。
「徳川慶喜と明治の静岡写真展 写された明治の静岡」より
(編集・発行 静岡市教育委員会 発刊1998年8月7日)

「わが郷土清水」のなかで筆者の鈴木繁三氏が描いた「江戸時代の郷土想像地図」(図32/136ページ)に海の部分を着色した。明治12年、波止場が造られ荷役の扱いが増えた。荷物を運搬する必要さから港橋が作らる。それまで巴川に架かる橋は稚児橋だけだった。 江戸時代の東海道は、興津から横砂、嶺を通り、辻を過ぎた所で西へ曲がり、現在の清水銀座から稚児橋を通って入江に入る。街道がクランクになっているのは、ここに江尻本陣があり、警備のため見通しを悪くしたためである。 入江から追分に向う東海道と、南へつづく久能街道の三叉路は現在と同じだ。 清水港は次郎長の時代に造られた波止場が近代化の口火となり、拡張を続け現在に至っている。当時の姿を残している「次郎長堤」にしても、地面に埋められた状態になり、当時の港を連想させるものではなくなった。 昔の姿を知ることは、現在の姿がどんな成り立ちを持っているのかを知ることだ。成り立ちを知ることのなかで、これからの姿を想像させるヒントがあるような気がしてならない。タイムトラベルは、未来への旅でもある。

港橋から南側の河口方面を望む。徳川慶喜も、この辺りにカメラを置いたのだろうか。

タンクや、クレーンの向う側に見える富士山が気に入っている。今の季節が一番かもしれない。3月になると春霞でぼんやりした姿しか見えなくなる。朝早く、清水駅に出向く用事があった。用を済ませ、いつもならそのまま帰るのだが、昨夜の雨が上がり、青空が広がっているので、寄り道をして江尻船溜りに向った。 ここから見る富士山が好きだ。ここには、清水というまちを構成している種々雑多なものが揃っている。 魚市場、漁船、貨物船、かんづめ工場、製氷、船用品、鮮魚店、オレンジ色の長靴、手鉤、冷凍倉庫、大型トラック、渡船場、釣り人、石油タンク、湾岸道路、清水駅、竜爪、山原、南アルプス、三保半島、駿河湾、そして富士山。

操業を止めてしまったはごろもフーズの工場前に停泊していた砂利船。右奥に見える建物は「清水テルサ」。中野サンプラザと同じ系列の勤労者福祉会館である。人口23万。数だけ見ると小さなまちではないが、友人、知人の人脈を何人か辿ってゆくと、自分につながることがよくある。人と人との関係が長い直線ではなく、小さな輪のような形をしているような気がする。それを田舎と呼ぶのかもしれない。 両親が生まれ育った西伊豆の小さな村は、村中が親戚みたいなものだ。人と人とが網のようにつながっている。それに比べると清水の密度はゆるい。都市になれない田舎だろうか。

昨夜の雨が岸壁に水溜まりとなっていた。次郎長堤の記事にコメントを寄せていただいたMさんの兄は、大正生まれの父が乗り組んでいた小型タンカーで遊んでいた。父もそのことをよく覚えていた。Mさんの小学校時代からの仲間であるTさんは、私のパソコン通信黎明期からの仲間だった。海外から、このブログを読んでいただいている方もいる。古い地図が人のつながりを呼び起こしてくれたりもする。 懐かしいという気持ちは、共通の感覚を持つ安心感だと思う。郷土意識というのだろうか。大切にしたいと、この頃強く感じる。放置しておくと、いつの間にか消えてしまう、危うさを感じるからだ。

サムシング田中さんから紹介して頂いた、20年前の地図より波止場の部分を切り取った。今から20年前、昭和40年代の住宅明細図を紹介して頂いた。日の出再開発で埋立てが始まる前の波止場の様子がよく判る。逆コの字型の波止場の一番奥に、観光汽船のりばがあった。夏場だけの運行で伊豆行の汽船が出た。土肥ではなく、松崎だったと思う。子どもの頃の記憶だが、アーケードがあって昼でも少し暗かったような気がする。 地図中央に「天野回漕店港倉庫No.1」とあるのが、現在も残っている赤茶けた倉庫である。その西側、「No.2」と書かれている場所に、船宿「末廣」があった。倉庫は「No.3」まで連なっていた。 「次郎長翁を知る会」の会報11号には、「次郎長宅跡」の石碑が、昭和30年代には青木倉庫(現アオキトランス)の本社前にあったと書かれている。20年前の地図で見ると、踏切りのすぐ横に本社があったことが判る。この辺りに石碑があったのだろう。
「次郎長堤(2)」で紹介した古地図を、20年前の地図と方角を20年前の地図に合わせてみた。上が北になる。

古地図は正確な測量に基づくものとは思えないので、重ねる作業では縮小や拡大したところがある。あくまでイメージとして見て頂きたい。

「第二次改修工事中の清水港(大正13年)」と題された写真徳川家康が駿府に隠居した頃、巴川の河口は現在の稚児橋辺りだったという。入江という地名がそれを示している。宝永地震(1707年)で巴川河口の土砂が隆起し、新しい土地が出現した。巴川が駿河湾へ伸びたのである。新しい土地は向島と呼ばれた。 安政地震(1855年)でも隆起が続き、向島が広がった。新しい土地には網干場や田畑も作られ、風よけの松も植えられた。浜田や松原町という地名の起源である。
「目で見る清水市の歴史」(杉山満著・緑星社出版部発行・1980年(昭和55)から

歌川(安藤)広重が描いた「駿州清水湊」歌川(安藤)広重が描いた清水港は巴川の両岸にあった。海側の土地が「向島」である。 河口に広がった港は、隆起や浸食で地形を変えている。地形の変化というと古代のイメージがあったが、清水の地形は江戸中期から幕末にかけて大きく変化している。「篤姫」の時代、清水は社会体制だけでなく地勢も大きく変化した。地勢の変化が社会の変化に深く関わっている。 幸いなことに、清水にはそれらの変化を教えてくれる文書や地図が残っている。ふるさとの歴史を調べる作業は、タイムトラベルのような楽しさがある。

写真提供:電脳六義園通信所 撮影:ふるさと通信員Sさん友人のサイトに、「船宿末廣」があった場所を上空から撮影したものが掲載されていた。朝日に輝く富士が美しい。静岡県側から見る富士山は、東側にこぶのように突き出た宝永山の位置で県内のどこから見ているのか、だいだいの場所が分かる。富士山は位置を確かめる巨大な灯台でもある。
友人の説明や、古い絵葉書に残されている波止場の風景から、現在の波止場に「末廣」と「次郎長堤」を重ねてみた。現存してる「次郎長堤」は、マリンパークの埋立てにより、海から切り離されたことが判る。

発行年は不明だが、明治後期から大正初期と言われている地図の一部に河川と海の部分を着色した。縮尺3000分の1、波止場の場所は「清水町大字清水受新田」と表示されている美濃輪大鳥居前で魚屋を営む友人が古い地図を届けてくれた。 明治後期から大正初期の地図の一部である。地図は白黒だが、巴川と清水港を判りやすいように着色した。港橋から真っ直ぐに伸びた道が港町商店街(エスパルス通り)である。道路の先にある波止場は今と変わらない。現存している次郎長堤の場所は、地図の右下の部分になる。
明治22年に発行された地図の波止場の部分を拡大した。「明治後期から大正初期の地図」では波止場の左(南)側に、もうひとつの波止場が見えるが、この地図では埋立てられている。

「昭和34年頃の港頭地区」と題された写真1959年(昭和34)の清水港を空から見た写真がある。波止場の先に倉庫が3棟見える。現在残っているのは一番海側の1棟だけである。倉庫の裏側(北)は、現在は埋立てられてマリンパークになっているが、この時代は海である。 この写真にはヨットが写っていない。ヨット愛好家が船底塗料を塗っていたのは、もう少し後の時代のようだ。
「目で見る清水市の歴史」(杉山満著・緑星社出版部発行・1980年(昭和55)から
次郎長が晩年を過ごした「船宿末廣」がどこにあったのか、ようやく判った。明治から大正にかけて写された波止場の写真でカメラがどこの位置にあったのかも、これで判る。シャッターを切った場所を知ることで、撮影者の気持ちに少しだけ近づくことができたように思う。
いろいろな資料について知恵を授けてくれた友人たちに、改めてお礼を言いたい。ありがとう。