きょうの清水 3月14日

波多打川近くの清見潟公園の桜は花びらの色が濃いような気がする。早咲き桜の特徴だろうか早咲きの桜が見頃を迎えている。3月になり、朝晩の冷え込みも和らぎ、冷たい風が吹かなくなった。冬の終わりは花粉症の始まりで、これか5月頃まで難儀をする季節でもある。 清水で桜の名所を三つあげるなら、船越堤、大沢川、日本平だろうか。 船越堤は山の遊歩道が整備され、広い公園として散策が楽しめる。だが、池が遊水池として整備され周りに入ることができなくなり、昔の風情を知る者にとっては少し寂しい。 日本平は道路が有料でなくなり、昔からの眺望を手軽に楽しめるようになった。大沢川は散り際が見事だ。花びらが川面を埋める。散り際では、上力町から市立病院にかけての道路沿いの桜も素晴らしい。車が走るたびに桜吹雪が路面に舞う。 開花予想では静岡市は3月24日と発表された。ということは、3月29日から30日が一番の賑わいになりそうだ。入学式の頃は桜吹雪かもしれない。

興津公民館の入口では成人式の記念植樹の桜が咲いていた。

3月8日、中央図書館で開かれた清水郷土史研究会・研究発表には100名近い聴衆が集まった。写真中央が講師の清水郷土史研究会会長山田 司氏3月8日の午後、清水中央図書館で清水郷土史研究会の研究発表会が開かれた。テーマは「数奇な生涯を送った天田愚庵」、講師は清水郷土史研究会会長の山田 司氏である。 演題の通り、明治37年に51歳で病死するまでの天田愚庵の人生は数奇としか言いようがない。幕末から新政府誕生という激動の時代、彼は時代の大波に呑み込まれるのではなく、水切り石のごとく波頭を走り抜けたような気がする。 会場で頂いた資料に愚庵の年譜には、たくさんの人との出逢いが記されている。 19歳で山岡鉄舟、25歳で次郎長に出逢い、39歳の時には正岡子規と高浜虚子が愚庵を訪ねている。その間、神田駿河台のニコライ神学校に入ったり、自由民権運動に加わったり、台湾征伐の従軍など同一人物とは思えない経歴だ。写真師、新聞記者と明治初期には極めて珍しい職歴を持つ。 天田愚庵という名前は、34歳で仏門に入った時の名だ。1854年(安政元年)7月20日、甘田平太夫の次男として生まれた。名を五郎という。父は磐城平藩(2万石)の勘定奉行だった。磐城平藩は奥羽越列藩同盟として新政府と戦った。戊辰戦争である。 戦いのなかで両親と妹が行方不明となる。愚庵は、その後生涯をかけて家族を捜し求める。旅回りの写真師となり各地で消息を訪ねた、巨費を投じて新聞にたずね人の広告を出したこともあった。

【写真左】天田愚庵が26歳の頃、旅回りの写真師だった。【写真右】晩年は正岡子規や高浜虚子らと交流があった天田五郎が山岡鉄舟の縁で次郎長と出逢った4年後には養子となり山本五郎を名乗った。次郎長の息子として富士山麓開墾事業の監督を務めている。出逢った直後から次郎長の武勇伝を書きつづった「東海遊侠伝」の執筆を始め、翌年には書き上げている。「東海遊侠伝」が出版されたのは1884年(明治17)、次郎長の養子になってから3年後になる。本には著者兼出版人として「静岡県平民山本五郎」と記されているという。 「東海遊侠伝」は、講談や浪曲で有名になった「次郎長」の原本である。歴史に「もしも」は禁句であるが、この本が世に出ていなければ、次郎長の名が全国に知れ渡ることもなかったかもしれない。 司馬遼太郎は「坂の上の雲」の後書きで「明治は、日本人のなかに能力主義が復活した時代であった」と書いた。私たちが幕末の動乱期を描いたドラマや小説に心惹かれるのは、人々が新しい社会を目指して目を輝かせている、その熱気が伝わってくるからだ。 2009年秋からNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放送される。大河ドラマとは別枠だが、3年に渡り放送される大型時代劇である。登場人部のなかに、天田愚庵が大きな影響を与えた正岡子規がいる。幕末から明治にかけての時代のなかで、清水の歴史を振り返る材料がまたひとつ増えそうだ。

船橋舎織江の「ゆびまんじゅう」の包装紙に由来が描かれている。晩年の次郎長は子ども好で、店のまんじゅうを次々と指でつぶしては「これじゃあ売り物になんねえずら」といいながら、まんじゅうを懐に子どもの元へ向かったといわれる。

水道局が管理する庵原貯水タンクは外周全体に清水の名物が描かれている。東名高速を東京方面から来て清水インターで降りるとき、この貯水タンクを見るとホッとする。色褪せたとはいえ、広告塔の役割を立派に果たしている。 おぼろげな記憶だが、このタンクに清水の次郎長が描かれている事にクレームがついたと思う。その後、どうなったのかは覚えていないが、今でも描かれているから、一件落着したのだろう。

清水インター料金所の看板清水インターが出来る前の様子を覚えている。袖師中時代の記憶だ。 袖中ではバスケット部に入っていて、練習で山原山をランニングで登ったことが何度かあった。行きは学校から山頂までほとんど休みなしで走り、帰りはハイキング気分でのんびり歩いていた。畑にレンゲの花が咲いていたのを覚えている。 清水インターに来ると、山原山のランニングを思い出す。

あちこちで梅や早咲きの桜が咲いている。寒の戻りで少し冷え込んできたが、季節は春である。

徳川慶喜が撮影した「清水港橋より港内(茨城県歴史館蔵)徳川慶喜が撮影した写真になかに「清水港橋より港内」と題された一枚がある。左側への湾曲と山が写っていないことから河口にカメラを向けていると思う。薪らしき束がたくさん見え、当時の暮らしが伝わってくる。 この写真は、波止場の写真と同じ明治20年代後半という。1878年(明治11)に清水湾に面した波止場が作られ、翌1879年に港橋が開通するまで、歌川広重が描いたように、清水港は巴川河口付近と、それに続く海岸だった。
「徳川慶喜と明治の静岡写真展 写された明治の静岡」より
(編集・発行 静岡市教育委員会 発刊1998年8月7日)

「わが郷土清水」のなかで筆者の鈴木繁三氏が描いた「江戸時代の郷土想像地図」(図32/136ページ)に海の部分を着色した。明治12年、波止場が造られ荷役の扱いが増えた。荷物を運搬する必要さから港橋が作らる。それまで巴川に架かる橋は稚児橋だけだった。 江戸時代の東海道は、興津から横砂、嶺を通り、辻を過ぎた所で西へ曲がり、現在の清水銀座から稚児橋を通って入江に入る。街道がクランクになっているのは、ここに江尻本陣があり、警備のため見通しを悪くしたためである。 入江から追分に向う東海道と、南へつづく久能街道の三叉路は現在と同じだ。 清水港は次郎長の時代に造られた波止場が近代化の口火となり、拡張を続け現在に至っている。当時の姿を残している「次郎長堤」にしても、地面に埋められた状態になり、当時の港を連想させるものではなくなった。 昔の姿を知ることは、現在の姿がどんな成り立ちを持っているのかを知ることだ。成り立ちを知ることのなかで、これからの姿を想像させるヒントがあるような気がしてならない。タイムトラベルは、未来への旅でもある。

港橋から南側の河口方面を望む。徳川慶喜も、この辺りにカメラを置いたのだろうか。

タンクや、クレーンの向う側に見える富士山が気に入っている。今の季節が一番かもしれない。3月になると春霞でぼんやりした姿しか見えなくなる。朝早く、清水駅に出向く用事があった。用を済ませ、いつもならそのまま帰るのだが、昨夜の雨が上がり、青空が広がっているので、寄り道をして江尻船溜りに向った。 ここから見る富士山が好きだ。ここには、清水というまちを構成している種々雑多なものが揃っている。 魚市場、漁船、貨物船、かんづめ工場、製氷、船用品、鮮魚店、オレンジ色の長靴、手鉤、冷凍倉庫、大型トラック、渡船場、釣り人、石油タンク、湾岸道路、清水駅、竜爪、山原、南アルプス、三保半島、駿河湾、そして富士山。

操業を止めてしまったはごろもフーズの工場前に停泊していた砂利船。右奥に見える建物は「清水テルサ」。中野サンプラザと同じ系列の勤労者福祉会館である。人口23万。数だけ見ると小さなまちではないが、友人、知人の人脈を何人か辿ってゆくと、自分につながることがよくある。人と人との関係が長い直線ではなく、小さな輪のような形をしているような気がする。それを田舎と呼ぶのかもしれない。 両親が生まれ育った西伊豆の小さな村は、村中が親戚みたいなものだ。人と人とが網のようにつながっている。それに比べると清水の密度はゆるい。都市になれない田舎だろうか。

昨夜の雨が岸壁に水溜まりとなっていた。次郎長堤の記事にコメントを寄せていただいたMさんの兄は、大正生まれの父が乗り組んでいた小型タンカーで遊んでいた。父もそのことをよく覚えていた。Mさんの小学校時代からの仲間であるTさんは、私のパソコン通信黎明期からの仲間だった。海外から、このブログを読んでいただいている方もいる。古い地図が人のつながりを呼び起こしてくれたりもする。 懐かしいという気持ちは、共通の感覚を持つ安心感だと思う。郷土意識というのだろうか。大切にしたいと、この頃強く感じる。放置しておくと、いつの間にか消えてしまう、危うさを感じるからだ。

サムシング田中さんから紹介して頂いた、20年前の地図より波止場の部分を切り取った。今から20年前、昭和40年代の住宅明細図を紹介して頂いた。日の出再開発で埋立てが始まる前の波止場の様子がよく判る。逆コの字型の波止場の一番奥に、観光汽船のりばがあった。夏場だけの運行で伊豆行の汽船が出た。土肥ではなく、松崎だったと思う。子どもの頃の記憶だが、アーケードがあって昼でも少し暗かったような気がする。 地図中央に「天野回漕店港倉庫No.1」とあるのが、現在も残っている赤茶けた倉庫である。その西側、「No.2」と書かれている場所に、船宿「末廣」があった。倉庫は「No.3」まで連なっていた。 「次郎長翁を知る会」の会報11号には、「次郎長宅跡」の石碑が、昭和30年代には青木倉庫(現アオキトランス)の本社前にあったと書かれている。20年前の地図で見ると、踏切りのすぐ横に本社があったことが判る。この辺りに石碑があったのだろう。
「次郎長堤(2)」で紹介した古地図を、20年前の地図と方角を20年前の地図に合わせてみた。上が北になる。

古地図は正確な測量に基づくものとは思えないので、重ねる作業では縮小や拡大したところがある。あくまでイメージとして見て頂きたい。

「第二次改修工事中の清水港(大正13年)」と題された写真徳川家康が駿府に隠居した頃、巴川の河口は現在の稚児橋辺りだったという。入江という地名がそれを示している。宝永地震(1707年)で巴川河口の土砂が隆起し、新しい土地が出現した。巴川が駿河湾へ伸びたのである。新しい土地は向島と呼ばれた。 安政地震(1855年)でも隆起が続き、向島が広がった。新しい土地には網干場や田畑も作られ、風よけの松も植えられた。浜田や松原町という地名の起源である。
「目で見る清水市の歴史」(杉山満著・緑星社出版部発行・1980年(昭和55)から

歌川(安藤)広重が描いた「駿州清水湊」歌川(安藤)広重が描いた清水港は巴川の両岸にあった。海側の土地が「向島」である。 河口に広がった港は、隆起や浸食で地形を変えている。地形の変化というと古代のイメージがあったが、清水の地形は江戸中期から幕末にかけて大きく変化している。「篤姫」の時代、清水は社会体制だけでなく地勢も大きく変化した。地勢の変化が社会の変化に深く関わっている。 幸いなことに、清水にはそれらの変化を教えてくれる文書や地図が残っている。ふるさとの歴史を調べる作業は、タイムトラベルのような楽しさがある。

写真提供:電脳六義園通信所 撮影:ふるさと通信員Sさん友人のサイトに、「船宿末廣」があった場所を上空から撮影したものが掲載されていた。朝日に輝く富士が美しい。静岡県側から見る富士山は、東側にこぶのように突き出た宝永山の位置で県内のどこから見ているのか、だいだいの場所が分かる。富士山は位置を確かめる巨大な灯台でもある。
友人の説明や、古い絵葉書に残されている波止場の風景から、現在の波止場に「末廣」と「次郎長堤」を重ねてみた。現存してる「次郎長堤」は、マリンパークの埋立てにより、海から切り離されたことが判る。

発行年は不明だが、明治後期から大正初期と言われている地図の一部に河川と海の部分を着色した。縮尺3000分の1、波止場の場所は「清水町大字清水受新田」と表示されている美濃輪大鳥居前で魚屋を営む友人が古い地図を届けてくれた。 明治後期から大正初期の地図の一部である。地図は白黒だが、巴川と清水港を判りやすいように着色した。港橋から真っ直ぐに伸びた道が港町商店街(エスパルス通り)である。道路の先にある波止場は今と変わらない。現存している次郎長堤の場所は、地図の右下の部分になる。
明治22年に発行された地図の波止場の部分を拡大した。「明治後期から大正初期の地図」では波止場の左(南)側に、もうひとつの波止場が見えるが、この地図では埋立てられている。

「昭和34年頃の港頭地区」と題された写真1959年(昭和34)の清水港を空から見た写真がある。波止場の先に倉庫が3棟見える。現在残っているのは一番海側の1棟だけである。倉庫の裏側(北)は、現在は埋立てられてマリンパークになっているが、この時代は海である。 この写真にはヨットが写っていない。ヨット愛好家が船底塗料を塗っていたのは、もう少し後の時代のようだ。
「目で見る清水市の歴史」(杉山満著・緑星社出版部発行・1980年(昭和55)から
次郎長が晩年を過ごした「船宿末廣」がどこにあったのか、ようやく判った。明治から大正にかけて写された波止場の写真でカメラがどこの位置にあったのかも、これで判る。シャッターを切った場所を知ることで、撮影者の気持ちに少しだけ近づくことができたように思う。
いろいろな資料について知恵を授けてくれた友人たちに、改めてお礼を言いたい。ありがとう。
友人が船宿末廣の場所について教えてくれた。

1998年発行の住宅明細図。浪漫館とベルジュ35はあるが、ドリプラはまだ地図に出ていない。清水港郵便局は出ているが、五万石の文字はすでに消え、浪漫館の東側にココパームスが出ている。1998年の地図で波止場を見ると、清水港郵便局は出ているが、五万石の文字はすでに消え、浪漫館の東側にココパームスが出ている。清水港郵便局があった場所は、朝市が開かれる駐車場の辺りだろうか。 昭和30年代、アオキトランス本社前に次郎長宅跡の石碑はあったものが、本社の移転で撤去され瓦礫のような扱いをされていたものを梅蔭寺に運び込まれた。損傷が激しいため平成11年に新しく石碑が作られ現在に至っている。 古い地図に、現在の石碑の場所を重ねると、アオキトランスの入口になる。もともとあった場所に、新しい石碑が置かれたようだ。
友人は「次郎長堤」のことも教えてくれた。
1980年(昭和55)に発行された「目で見る清水市の歴史」(杉山満著・緑星社出版部発行)から関東大震災の避難者が清水に上陸する写真がある。中央に「港屋」と書かれた2階建ての建物が見える。関東大震災は大正12年、末廣が次郎長の親族の手を離れ「港屋」と改名したのが大正8年である。 写真の右側に石垣が写っている。現存する「次郎長堤」は、この写真の建物の裏側になると思われる。徳川慶喜が撮影した写真と比べると、家屋の前が広くなっている。埋め立てたのだろう。
赤茶けた倉庫の裏にある次郎長堤はペンキに汚れていた。次郎長宅跡の立派な石碑と比べると、悲しくなるような姿だ。この石のひとつひとつに清水港の近代化が刻み込まれている。もっと大切に守ってあげたいと思う。
次郎長宅跡の記念碑。実際の「末廣」は、ここから50メートル東にあったという。灰色のフェンスはユニクロ・エスパルスドリームプラザ店。ユニクロ・エスパルスドリームプラザ店の東側に、「次郎長宅跡」の石碑がある。清水港100周年記念碑の直ぐ近くだ。 この石碑が作られたのは、1999年(平成11)である。もともと、昭和30年代から青木倉庫(アオキトランス)の本社前にあったものが、日の出再開発で波止場の様相が一変し、所在地が不明になっていた。それを清水市が復活させた。
次郎長宅跡石碑銘板 ≫
次郎長宅跡石碑裏側 ≫
徳川慶喜が撮影した清水波止場(徳川慶朝氏蔵)徳川慶喜はたくさんの写真を残した。そのなかに清水港を撮影したものが2枚ある。上の写真は、その1枚である。撮影は明治20年代後半という。写真の中央左側に見える2階建ての家が次郎長の船宿「末廣」である。 「次郎長翁を知る会」の会報11号、12号に、石碑や場所の特定に至る経緯が詳しく書かれている。 徳川慶喜は駿府に隠居した30年間、頻繁に清水を訪れている。身辺警護を担当していた次郎長との親交が深かったという。晩年の元将軍と元侠客、異色の組み合わせである。
「徳川慶喜と明治の静岡写真展 写された明治の静岡」より
(編集・発行 静岡市教育委員会 発刊1998年8月7日)

石碑には、実際の場所が「ここより50メートル東」と記されている。富士山は北東になるので、それを手がかりに歩くと、水上バスのりばに着いた。この辺りに「末廣」があったのだろうか。次郎長は1893年(明治26)に亡くなるまでの7年間を「末廣」で過ごした。国定忠治など名の知れた侠客は大勢いたが、みな凶刃に倒れ畳の上で天寿を全うしたのは次郎長だけだったという。 明治政府は徳川幕府を滅ぼし、新しい国家を作った。新政府に希望を感じた人たちと、失望を感じた人たちがいた。光があれば、影が生まれる。日本の近代化は士族の反乱と農民一揆のなかで進められた。 しかし、新政府は徴兵制と軍備の近代化で強大な軍事力を持ち、不満を持つ勢力を鎮圧した。1889年(明治22)には大日本帝国憲法が発布され、新政府は国家としての存在を世界に示した。 この時代に、次郎長は晩年を過ごした。 清水港に停泊した海軍の艦船から下士官が「末廣」に泊まった。艦長などの上官は、江尻本陣だったのかもしれない。若き軍人たちは、次郎長の武勇伝を聞いて、どんな感想を持ったのだろうか。軍人だけでなく静坐法の岡田虎二郎のように、次郎長の話を聞きたくて「末廣」にやってきた人たちも少なからずいた。次郎長の魅力もあったが、清水港には人と物を集める強力な吸引力があったのだろう。 毎日新聞日曜版で連載中の小説「斜陽に立つ」は日露戦争が舞台である。作者の古川薫は、山岡鉄舟を「帝は畏敬するほど愛された」と書いている。徳川に仕えた山岡鉄舟が明治天皇を支えた。 勝手な推測かもしれないが、剣客としても知られた鉄舟が、徳川慶喜を見捨てたとは思えない。守りたかった。だから、次郎長に警護をさせた。時代の分岐点は白黒で分けられない。そんな気がする。

風を避けているのだろうか、カモメが広場に集まっていた。正面の大きな建物が浪漫館、右側が港橋横のキララシティ。名前だけ聞くと分からないが、どちらもマンションである。次郎長の時代、ここから有度山(日本平)がよく見えたはずだ。
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人形の三度笠には「大政」と書かれていた。港町に復元された「末廣」でつるし雛飾りが展示されている。つるし雛は、もともと東伊豆が有名だが、この頃は県内各地で展示されるようだ。手芸の心得がある人なら自分でも作れそうな素朴な人形は、段飾りとは違った味わいがある。 館内には「次郎長二十八人衆飾り」「エスパルス」「かっぽれ飾り」「清水飾り」など、清水にちなんだつるし雛が飾られている。二十八人衆の三度笠には名前が書かれ、エスパルスには背番号が貼られている。 ここを訪れる30代から40代の人は「旅姿三人男」を聞いたことがない人が多いが、逆に子どもたちは知っているという。ちびまる子ちゃんのアニメで友蔵じいさんが唄う場面があり、それで知っているのだ。 50代の私はもちろん知っているが、ディック・ミネと曲が結びつかない。テレビではなくラジオで聞いていた時代だったのかもしれない。

エスパルスつるし雛は運営会社の承諾を得たもので、ユニフォームには公式エンブレムが付けられているカメラを構えたら20番がレンズに入ってきた。西澤明訓選手である。入江小(清水FC)、八中、清水東と歩み、セレッソ大阪でプロデビューし、昨年清水に移籍してきた。 かなわぬ夢だと思いつつ、いつか清水出身の選手で固めたチームが日本平のピッチを走る。そんな夢を、つるし雛にお願いしてみた。

「末廣」での次郎長つるし雛は3月9日まで展示されている「末廣」は晩年の次郎長が波止場で営んだ船宿だ。明治20年代には、海軍の若者たちが、次郎長の武勇伝を聞くために足を運んだという。 2001年(平成13)4月1日にオープンした「末廣」は、スルガ銀行があった場所に復元された。(清水駅前の公的施設も前世は銀行だった。銀行に縁が深い土地柄かもしれない) 平成の「末廣」は次郎長の時代とは300メートルほど離れた場所になる。ユニクロの店舗を左に出て、港へ向って少し歩くと石碑がある。ここの場所に、晩年の次郎長がいた。 明治の「末廣」が何処にあったのか、場所を特定する証拠となったものは徳川慶喜が撮影した写真である。この話は、また改めて紹介しよう。
1月27日、清水新年子ども大会が清水市民文化会館大ホールで開かれた。清水区内の地区子ども会の代表が演劇やコーラス、郷土芸能やダンスを披露した。子ども会が主催するステージでの発表会が56年も続いているのは全国的にも珍しいという。
各地区の演目の幕間にはリーダーと呼ばれる中学生、高校生が客席の子どもたちをゲームで楽しませる。彼らの所属する清水リーダース倶楽部には中高生だけでなく、大学生や社会人もいる。子ども会のリーダー組織は全国各地にあり、それぞれが活発な活動を続けている。
小学生にとって中学生、高校生は先輩というより、大人に近い存在だ。ステージの上で着ぐるみを着てゲームを指導する身近な「大人」に客席の小学生が目を輝かせている。
ある地区の子ども会は10年前から劇の指導を、その地区の中学生、高校生が担当している。オリジナルのシナリオから演技の指導まで父母の手を借りず、自分たちで作り上げている。いろいろな経験の積み重ねが、先輩から後輩へと受け継がれてきた。
もちろん、父母たちが何もしないという訳ではない。練習会場の確保や、夜の練習なら会場までの送迎も必要になる。大道具の支度など裏方として、たくさんの役割があるはずだ。裏方の苦労があるから、ステージのスポットライトが輝いて見える。
子どもたちが作り上げたステージの世界は、親たちの大きな手のひらの中に収まってしまうのかもしれない。親や地域の大人たちに、守られながら子どもたちは成長していく。
今は、そのことに気づいていないかもしれないが、子どもたちが大人になった時、裏方としてステージを支えてくれた親たちの大きさと暖かさを思い出すに違いない。
子どもを取り巻く環境の変化が語られるようになったのはいつの頃からだろうか。変化のなかで、学校も変わり、地域の雰囲気も変わった。ゲーム機の登場で遊びの形も変わった。親たちの感じ方も変わったように感じることもある。
清水新年子ども大会も56年目を迎えた。私も小学6年の時、クラスの仲間たちと「とんち彦一」の劇でステージに立ったことがある。12回大会だった。会場は市役所近くの公会堂だ。45回大会では、娘がステージに立った。私だけでなく、親子2代での出演は少なくないと思う。
長い年月のなかで磨かれ、輝きを増す部分と、その逆に色褪せて見える部分がある。
色褪せたものを、どうやって輝かせるのか。磨き方の方法なのか、それとも部品を換えざる得ないのか、判断を誤ると土台が崩れてしまうような危うさを感じる。それは、56年という歳月の重さだろう。
時代のなかで変化は避けられない。だが、時間を忘れて遊んでいる子どもたちを見ていると、子どもたちの世界は、昔も今も変わっていないように思えてならない。変わったのは大人たちなのかもしれない。
古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう吉田拓郎の唄を初めて聞いたのは高校生の時だった。新しい時代の夜明けが近い、そんな心の高ぶりを感じていた。時代が変わり、自分が「古い水夫」の一員になっているのを感じることがある。 古いということは、怠惰や無気力とは違う。長い経験のなかで、先に起こることをあれこれ想定してしまう。過ちを避けようとして、マイナス面を考え、リスクを克服するための方策を探そうとする。だが、そんな方策など簡単に見つかるはずもなく、はじめの一歩が踏み出せなくなる。 踏み出せないでいる大人たちに「新しい水夫」は、歩み続けようと声を上げる。どの時代でも同じことを繰り返している。「古い水夫」に求められていることは、新しい水夫の声を信じ、裏方として暖かく見守ってやることかもしれない。その度量が問われているのだと思う。
古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう
(吉田拓郎・イメージの詩)

1月16日、袖師小学校で開かれた「ゆうかり新年会」では、地域の人たちが昔の遊びや、ぼたもち作りで参加した。ペッタン(メンコ)を知らない子どもたちに、年配の方がやり方を教えると、子どもたちは夢中になって叩いていた。私も何十年ぶりかでペッタンをやってみた。昔も丸型はあったが、実際に遊んだのは四角で厚みのあるものだった。蝋を垂らしたり、湾曲させたりいろいろ工夫をして勝負にいどんだ。

「興津承元寺町出身の北川勇作さんが、明治時代、あんこを作るための磨漉機や煮炊釜、豆皮分離器を発明して、同郷の内藤幾太郎さんと共に日本の製餡業の基礎を築いたんだ。八幡神社の入口に、二人の功績をたたえる碑があるよ。」(寒ざくらまつりの案内チラシ)興津承元寺町、八幡神社の入口にある製餡発祥の碑を訪ねた。 国道52号線に入り、東名高速の下を過ぎると「承元寺入口」と書かれた信号がある。右折し、一車線の八幡橋を渡る。承元寺町は興津川左岸にある。橋を渡ると真新しいステンレスの案内表示が目に入る。左折でゆるい坂を登り始めるとすぐに15分団の建物が見える。分団の裏に承元寺公民館があり、その横を入ると一番奥に八幡神社の鳥居が見える。

鳥居の前にある頌徳碑は左が北川勇作氏、右が内藤幾太郎氏承元寺公民館横の狭い道を進むと鳥居と、それを挟むような左右の石碑が見えた。八幡神社の木々の高さと二つ石碑が圧倒的な存在感を持って鎮座している。 左側に北川勇作氏頌徳碑、右側に内藤幾太郎氏頌徳碑。どちらも昭和12年に建立され、大きさも同じである。それぞれの石碑の前にはステンレスで作られた碑文の案内がある。平成18年に作られた説明板は真新しく、冬の日差しに輝いていた。

昭和12年に建立された北川勇作氏の頌徳碑(右)と、平成18に年に作られたステンレス製の頌徳碑解説(左)八幡神社の境内はきれいに掃き清められていた。本殿の後に神社全体を覆うかのような楠の大木がある。幾重にも別れた太い枝が天に向って葉を広げ、日差しを遮っている。初めて訪れた緊張感からかもしれないが、荘厳な雰囲気に圧倒される。

神社の裏は崖になっている。ご神木と思われる巨大な楠の木が周囲を圧倒する。興津の承元寺町に生まれた北川勇作氏は機械による製餡技術を確立し、大量生産への道を造った。内藤幾太郎氏は、北川氏を援助しながら自分でも開業し成功を収めた。さらに大日本製餡組合の創立発起人となった。日本の製餡業界は、この二人が興したと言っても過言ではない。 頌徳碑に記されているように、北川勇作氏は農家の次男である。家督は長男が継ぐ時代だから次男、三男は職を求めて都会へ流れた。東京の製餡所で働くなかで、機械化を店舗を広げる才覚を養った。優れた技術者であり、経営者でもあった。

神社の杜を抜け鳥居をくぐり、再び頌徳碑を見上げてみる。黒い巨大な石板は「2001年宇宙の旅」に登場するモノリスのようだ。頌徳碑の裏側には寄贈した全国の製餡業者の名前が記されている。「常に後進を指導援助し今や後進の独立営業するもの全国に百数十人の多きに至る」と書かれているように、その多くが北川を名乗っている。暖簾分けで広がっていたのだろう。 二人の頌徳碑がある八幡神社から川沿いの道を下流に向って進むと、薩 峠へ向う山道の案内看板があった。 由比から薩 峠を越え、興津に入る。そこから少し北上して八幡神社に参拝し、「あんこのふるさと興津」を知り、それから興津駅方面に向う。寸胴焼きや、鯛焼きを食べながら先人の苦労を偲ぶ。そんな散策ルートがあっても良いような気がした。

北川勇作氏頌徳碑 (日本製餡業界の大恩人) 北川勇作氏は北川源左右衛門翁の次子で明治十一年四月二十一日、静岡県興津町承元寺に生る。小学校卒業後、農業に従事するも生活の向上を決意し明治三十二年九月、二十一歳で東京中養堂製餡所に職工として勤務し刻苦して製餡の法を究める。 明治三十三年十一月、意を決して自ら製餡所を大阪市南区日本橋三丁目に起こす。創業に際し、資金乏しく困難に遭遇するが、ついにそれを克服し、大正五年までに天満支店、京都支店、和歌山支店、岡山支店と順次開業し、発展を続ける。大正七年、一大工場を天王寺区北日東町に開業し本店営業所とする。 その間、北川式製餡磨漉機、北川式豆類煮炊釜、北川式製餡漂白機、北川式豆分離機を発明し特許を得る。而して同事業に成功し、日本製餡業界の覇者となったのである。 また常に後進を指導援助し今や後進の独立営業するもの全国に百数十人の多きに至る。実に北川勇作氏の美徳とするところである。 又、敬神報恩の念篤く、学校の建設、奨学資金、神社仏閣の造営その他、公共事業等に寄附を行い、社会に貢献する。しかし、こらから益々の発展の矢先、病魔に冒され、大正十二年六月六日、四十九歳にて病没する。 昭和十二年五月、大日本製餡組合員一同は製餡業界の先駆者で大恩人である北川勇作氏の遺徳を永遠に伝えんと欲し、承元寺院の所有地を譲り受け、承元寺区民の協力のより、ここ生誕の地に氏頌徳碑を建設したものである。 昭和十二年五月 (頌徳碑の説明板からテキスト化した)
●「興津承元寺町・八幡神社」をALPSLABで見る

果樹研究所の正式名称は「農業・食品産業技術総合研究機構 果樹研究所 カンキツ研究興津拠点」である。2月9日(土)、興津宿・寒ざくらまつりが開かれる。 果樹研究所の一般公開に合わせて開かれる「寒ざくらまつり」も、今年で11回目となる。以前は興津駅前広場で開催していたが、数年前から海岸近くに出来た興津コミュニティセンターが会場となっている。 東海道五十三次を昔と同じように歩く旅が静かなブームらしく、興津から清水までの国道でハイキング姿のグループをよく見かける。巡礼のような気分になるような気がして、一度体験しようと思ってはいるのだが、富士登山と同じでまだ未完である。 このチラシで、製餡発祥の碑が八幡神社にあることを知った。承元寺町にある八幡神社に、出かけてみようと思う。歩くのがいいに決まっているのだが、小島と興津の境目になるので、私にとってはかなりの覚悟が必要だ。


袖師小学校の4階から運動場を見る。左側の楠の木と比べ、やせ細ったように見える右側のゆうかりの木が痛々しい。耐震工事のため仮設通路がプールに沿って造られている。本館から新館への移動は、これを使う。「静岡県内でも積雪が予想されます」という天気予報を聞くと、40年前の記憶と重なり期待に胸が膨らむ。今朝も、もしかしたらと思って窓を開けたら、冷たい雨が降っていた。 40年前の冬、雪に縁の薄い清水にも雪が降り、みなれた景色が白一色になった。積雪といっても豪雪地帯からみれば笑われてしまう程度だったが、清水にとっては何十年ぶりの雪に、みんな興奮した。 同世代の友人に、その話をすると例外なく覚えている。ただし、それが何年だったのか、東京オリンピックの前だったか後だったか、一年前か、二年後かという話になると、記憶があいまいになる。 私は中学1年か2年の冬だと思い込んでいた。東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年は小学校6年だったから、1965(昭和40)年1月なら、まだ小学生だ。もし中学1年の冬で、雪が積もったのが1月とすれば、1966(昭和41)年1月となる。 一番冷え込むのは2月だが、話を簡単にするため1月に積もったとして、年代だけを考えよう。 同年の友人は「小学生だった」と覚えている。小学生だったとしたら、1964年の1月だ。小学校時代を東京で過ごした友人は、清水での雪を覚えていないという。だから、清水に戻る前の1965年以前だと推測している。この推測は信憑性が高い。 「興津三十年誌」には興津町が清水市と合併した1961(昭和36)年から平成に至るまでの詳細な年表がある。集中豪雨での被害については、繰り返し記載されているが、大雪の記録はない。雪が積もって混乱はあったが災害という扱いにはなっていないのだろう。 歴史には記録されなかったが、私たちの記憶にはっきりと刻まれている。学校の運動場を白く埋めた大雪が降ったのは、いつだったのかを知りたくなってきた。 あの大雪が、何年だったのかご存じの方はいらっしゃいますか。

袖師小学校の階段に付けられている木製の手摺り。真鍮で作られたノブのような突起は根本がグラグラしているが、まだ健在だ。

秋葉山公園から山原山、竜爪を望む。青い円筒型は清水次郎長のイラストでお馴染みの清水インター傍にある給水タンク。右端の建物は清水厚生病院。今日は「大寒」。一年で一番寒い(さぶい)という二十四節気の決まり通り、清水も冷え込んだ。 昨日の天気予報では、夜中に平地でも3センチ程の積雪も予想されていたが、清水の平地は雨だった。朝早くには山原山もうっすら白く見えたが、9時を過ぎたころには、それも消え竜爪の白さが、「大寒」の証拠のように残っている。 ひとくちに清水と言っても広い。平地と山間部では寒さ、暑さが驚くほど違う。 静岡市となれば、北は井川、南アルプスである。 以前、金谷からSLに乗り、千頭でトロッコ列車に乗り換え井川で一泊したことがある。市外局番が静岡市だったのが意外だった。そんな話を友人にしたら、「東京から伊豆七島に電話をかけると市内通話だぜ。それに比べりゃ近い」という話になった。 近くで起こっていることでも、知らないことは山ほどある。 百聞は一見にしかずという言葉の通り、文字や写真だけでは伝わらないことがある。ネットワークで得た縁を手かがりに、時には山を越え、海を越え出かけることも大切だと思う。 大寒の冷たい(つべたい)風に吹かれながら山々を見つめていると、気持ちが大きくなる。

第二東名の工事現場を望む。右端に「六角堂」の看板が見える。以前はおしゃれなカフェで六角形の建物だったが、その後ラーメン店となり、建替えられた今の店舗は四角だ。左端には西久保に縁の深い「緑ヶ丘書店」の文字も見える。