きょうの清水 2月20日

次郎長宅跡の記念碑。実際の「末廣」は、ここから50メートル東にあったという。灰色のフェンスはユニクロ・エスパルスドリームプラザ店。ユニクロ・エスパルスドリームプラザ店の東側に、「次郎長宅跡」の石碑がある。清水港100周年記念碑の直ぐ近くだ。 この石碑が作られたのは、1999年(平成11)である。もともと、昭和30年代から青木倉庫(アオキトランス)の本社前にあったものが、日の出再開発で波止場の様相が一変し、所在地が不明になっていた。それを清水市が復活させた。
次郎長宅跡石碑銘板≫
次郎長宅跡石碑裏側≫

「次郎長翁を知る会」の会報11号、12号に、石碑や場所の特定に至る経緯が詳しく書かれている。上の写真は「次郎長翁を知る会」の会報に掲載されたものだが、撮影したのは徳川慶喜である。撮影は明治20年代という。この写真が次郎長の船宿「末廣」の場所を特定する証拠となった。 徳川慶喜は駿府に隠居した30年間、頻繁に清水を訪れている。身辺警護を担当していた次郎長との親交が深かったという。晩年の元将軍と元侠客、異色の組み合わせである。

石碑には、実際の場所が「ここより50メートル東」と記されている。富士山は北東になるので、それを手がかりに歩くと、水上バスのりばに着いた。この辺りに「末廣」があったのだろうか。次郎長は1893年(明治26)に亡くなるまでの7年間を「末廣」で過ごした。国定忠治など名の知れた侠客は大勢いたが、みな凶刃に倒れ畳の上で天寿を全うしたのは次郎長だけだったという。 明治政府は徳川幕府を滅ぼし、新しい国家を作った。新政府に希望を感じた人たちと、失望を感じた人たちがいた。光があれば、影が生まれる。日本の近代化は士族の反乱と農民一揆のなかで進められた。 しかし、新政府は徴兵制と軍備の近代化で強大な軍事力を持ち、不満を持つ勢力を鎮圧した。1889年(明治22)には大日本帝国憲法が発布され、新政府は国家としての存在を世界に示した。 この時代に、次郎長は晩年を過ごした。 清水港に停泊した海軍の艦船から下士官が「末廣」に泊まった。艦長などの上官は、江尻本陣だったのかもしれない。若き軍人たちは、次郎長の武勇伝を聞いて、どんな感想を持ったのだろうか。軍人だけでなく静坐法の岡田虎二郎のように、次郎長の話を聞きたくて「末廣」にやってきた人たちも少なからずいた。次郎長の魅力もあったが、清水港には人と物を集める強力な吸引力があったのだろう。 毎日新聞日曜版で連載中の小説「斜陽に立つ」は日露戦争が舞台である。作者の古川薫は、山岡鉄舟を「帝は畏敬するほど愛された」と書いている。徳川慶喜に仕えた山岡鉄舟が明治天皇を支えた。 勝手な推測かもしれないが、旧幕臣で剣客としても知られた鉄舟が、徳川慶喜を見捨てたとは思えない。守りたかった。だから、次郎長に警護をさせた。時代の分岐点は白黒で分けられない。そんな気がする。

風を避けているのだろうか、カモメが広場に集まっていた。正面の大きな建物が浪漫館、右側が港橋横のキララシティ。名前だけ聞くと分からないが、どちらもマンションである。次郎長の時代、ここから有度山(日本平)がよく見えたはずだ。
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人形の三度笠には「大政」と書かれていた。港町に復元された「末廣」でつるし雛飾りが展示されている。つるし雛は、もともと東伊豆が有名だが、この頃は県内各地で展示されるようだ。手芸の心得がある人なら自分でも作れそうな素朴な人形は、段飾りとは違った味わいがある。 館内には「次郎長二十八人衆飾り」「エスパルス」「かっぽれ飾り」「清水飾り」など、清水にちなんだつるし雛が飾られている。二十八人衆の三度笠には名前が書かれ、エスパルスには背番号が貼られている。 ここを訪れる30代から40代の人は「旅姿三人男」を聞いたことがない人が多いが、逆に子どもたちは知っているという。ちびまる子ちゃんのアニメで友蔵じいさんが唄う場面があり、それで知っているのだ。 50代の私はもちろん知っているが、ディック・ミネと曲が結びつかない。テレビではなくラジオで聞いていた時代だったのかもしれない。

エスパルスつるし雛は運営会社の承諾を得たもので、ユニフォームには公式エンブレムが付けられているカメラを構えたら20番がレンズに入ってきた。西澤明訓選手である。入江小(清水FC)、八中、清水東と歩み、セレッソ大阪でプロデビューし、昨年清水に移籍してきた。 かなわぬ夢だと思いつつ、いつか清水出身の選手で固めたチームが日本平のピッチを走る。そんな夢を、つるし雛にお願いしてみた。

「末廣」での次郎長つるし雛は3月9日まで展示されている「末廣」は晩年の次郎長が波止場で営んだ船宿だ。明治20年代には、海軍の若者たちが、次郎長の武勇伝を聞くために足を運んだという。 2001年(平成13)4月1日にオープンした「末廣」は、スルガ銀行があった場所に復元された。(清水駅前の公的施設も前世は銀行だった。銀行に縁が深い土地柄かもしれない) 平成の「末廣」は次郎長の時代とは300メートルほど離れた場所になる。ユニクロの店舗を左に出て、港へ向って少し歩くと石碑がある。ここの場所に、晩年の次郎長がいた。 明治の「末廣」が何処にあったのか、場所を特定する証拠となったものは徳川慶喜が撮影した写真である。この話は、また改めて紹介しよう。
1月27日、清水新年子ども大会が清水市民文化会館大ホールで開かれた。清水区内の地区子ども会の代表が演劇やコーラス、郷土芸能やダンスを披露した。子ども会が主催するステージでの発表会が56年も続いているのは全国的にも珍しいという。
各地区の演目の幕間にはリーダーと呼ばれる中学生、高校生が客席の子どもたちをゲームで楽しませる。彼らの所属する清水リーダース倶楽部には中高生だけでなく、大学生や社会人もいる。子ども会のリーダー組織は全国各地にあり、それぞれが活発な活動を続けている。
小学生にとって中学生、高校生は先輩というより、大人に近い存在だ。ステージの上で着ぐるみを着てゲームを指導する身近な「大人」に客席の小学生が目を輝かせている。
ある地区の子ども会は10年前から劇の指導を、その地区の中学生、高校生が担当している。オリジナルのシナリオから演技の指導まで父母の手を借りず、自分たちで作り上げている。いろいろな経験の積み重ねが、先輩から後輩へと受け継がれてきた。
もちろん、父母たちが何もしないという訳ではない。練習会場の確保や、夜の練習なら会場までの送迎も必要になる。大道具の支度など裏方として、たくさんの役割があるはずだ。裏方の苦労があるから、ステージのスポットライトが輝いて見える。
子どもたちが作り上げたステージの世界は、親たちの大きな手のひらの中に収まってしまうのかもしれない。親や地域の大人たちに、守られながら子どもたちは成長していく。
今は、そのことに気づいていないかもしれないが、子どもたちが大人になった時、裏方としてステージを支えてくれた親たちの大きさと暖かさを思い出すに違いない。
子どもを取り巻く環境の変化が語られるようになったのはいつの頃からだろうか。変化のなかで、学校も変わり、地域の雰囲気も変わった。ゲーム機の登場で遊びの形も変わった。親たちの感じ方も変わったように感じることもある。
清水新年子ども大会も56年目を迎えた。私も小学6年の時、クラスの仲間たちと「とんち彦一」の劇でステージに立ったことがある。12回大会だった。会場は市役所近くの公会堂だ。45回大会では、娘がステージに立った。私だけでなく、親子2代での出演は少なくないと思う。
長い年月のなかで磨かれ、輝きを増す部分と、その逆に色褪せて見える部分がある。
色褪せたものを、どうやって輝かせるのか。磨き方の方法なのか、それとも部品を換えざる得ないのか、判断を誤ると土台が崩れてしまうような危うさを感じる。それは、56年という歳月の重さだろう。
時代のなかで変化は避けられない。だが、時間を忘れて遊んでいる子どもたちを見ていると、子どもたちの世界は、昔も今も変わっていないように思えてならない。変わったのは大人たちなのかもしれない。
古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう吉田拓郎の唄を初めて聞いたのは高校生の時だった。新しい時代の夜明けが近い、そんな心の高ぶりを感じていた。時代が変わり、自分が「古い水夫」の一員になっているのを感じることがある。 古いということは、怠惰や無気力とは違う。長い経験のなかで、先に起こることをあれこれ想定してしまう。過ちを避けようとして、マイナス面を考え、リスクを克服するための方策を探そうとする。だが、そんな方策など簡単に見つかるはずもなく、はじめの一歩が踏み出せなくなる。 踏み出せないでいる大人たちに「新しい水夫」は、歩み続けようと声を上げる。どの時代でも同じことを繰り返している。「古い水夫」に求められていることは、新しい水夫の声を信じ、裏方として暖かく見守ってやることかもしれない。その度量が問われているのだと思う。
古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう
(吉田拓郎・イメージの詩)

1月16日、袖師小学校で開かれた「ゆうかり新年会」では、地域の人たちが昔の遊びや、ぼたもち作りで参加した。ペッタン(メンコ)を知らない子どもたちに、年配の方がやり方を教えると、子どもたちは夢中になって叩いていた。私も何十年ぶりかでペッタンをやってみた。昔も丸型はあったが、実際に遊んだのは四角で厚みのあるものだった。蝋を垂らしたり、湾曲させたりいろいろ工夫をして勝負にいどんだ。

「興津承元寺町出身の北川勇作さんが、明治時代、あんこを作るための磨漉機や煮炊釜、豆皮分離器を発明して、同郷の内藤幾太郎さんと共に日本の製餡業の基礎を築いたんだ。八幡神社の入口に、二人の功績をたたえる碑があるよ。」(寒ざくらまつりの案内チラシ)興津承元寺町、八幡神社の入口にある製餡発祥の碑を訪ねた。 国道52号線に入り、東名高速の下を過ぎると「承元寺入口」と書かれた信号がある。右折し、一車線の八幡橋を渡る。承元寺町は興津川左岸にある。橋を渡ると真新しいステンレスの案内表示が目に入る。左折でゆるい坂を登り始めるとすぐに15分団の建物が見える。分団の裏に承元寺公民館があり、その横を入ると一番奥に八幡神社の鳥居が見える。

鳥居の前にある頌徳碑は左が北川勇作氏、右が内藤幾太郎氏承元寺公民館横の狭い道を進むと鳥居と、それを挟むような左右の石碑が見えた。八幡神社の木々の高さと二つ石碑が圧倒的な存在感を持って鎮座している。 左側に北川勇作氏頌徳碑、右側に内藤幾太郎氏頌徳碑。どちらも昭和12年に建立され、大きさも同じである。それぞれの石碑の前にはステンレスで作られた碑文の案内がある。平成18年に作られた説明板は真新しく、冬の日差しに輝いていた。

昭和12年に建立された北川勇作氏の頌徳碑(右)と、平成18に年に作られたステンレス製の頌徳碑解説(左)八幡神社の境内はきれいに掃き清められていた。本殿の後に神社全体を覆うかのような楠の大木がある。幾重にも別れた太い枝が天に向って葉を広げ、日差しを遮っている。初めて訪れた緊張感からかもしれないが、荘厳な雰囲気に圧倒される。

神社の裏は崖になっている。ご神木と思われる巨大な楠の木が周囲を圧倒する。興津の承元寺町に生まれた北川勇作氏は機械による製餡技術を確立し、大量生産への道を造った。内藤幾太郎氏は、北川氏を援助しながら自分でも開業し成功を収めた。さらに大日本製餡組合の創立発起人となった。日本の製餡業界は、この二人が興したと言っても過言ではない。 頌徳碑に記されているように、北川勇作氏は農家の次男である。家督は長男が継ぐ時代だから次男、三男は職を求めて都会へ流れた。東京の製餡所で働くなかで、機械化を店舗を広げる才覚を養った。優れた技術者であり、経営者でもあった。

神社の杜を抜け鳥居をくぐり、再び頌徳碑を見上げてみる。黒い巨大な石板は「2001年宇宙の旅」に登場するモノリスのようだ。頌徳碑の裏側には寄贈した全国の製餡業者の名前が記されている。「常に後進を指導援助し今や後進の独立営業するもの全国に百数十人の多きに至る」と書かれているように、その多くが北川を名乗っている。暖簾分けで広がっていたのだろう。 二人の頌徳碑がある八幡神社から川沿いの道を下流に向って進むと、薩 峠へ向う山道の案内看板があった。 由比から薩 峠を越え、興津に入る。そこから少し北上して八幡神社に参拝し、「あんこのふるさと興津」を知り、それから興津駅方面に向う。寸胴焼きや、鯛焼きを食べながら先人の苦労を偲ぶ。そんな散策ルートがあっても良いような気がした。

北川勇作氏頌徳碑 (日本製餡業界の大恩人) 北川勇作氏は北川源左右衛門翁の次子で明治十一年四月二十一日、静岡県興津町承元寺に生る。小学校卒業後、農業に従事するも生活の向上を決意し明治三十二年九月、二十一歳で東京中養堂製餡所に職工として勤務し刻苦して製餡の法を究める。 明治三十三年十一月、意を決して自ら製餡所を大阪市南区日本橋三丁目に起こす。創業に際し、資金乏しく困難に遭遇するが、ついにそれを克服し、大正五年までに天満支店、京都支店、和歌山支店、岡山支店と順次開業し、発展を続ける。大正七年、一大工場を天王寺区北日東町に開業し本店営業所とする。 その間、北川式製餡磨漉機、北川式豆類煮炊釜、北川式製餡漂白機、北川式豆分離機を発明し特許を得る。而して同事業に成功し、日本製餡業界の覇者となったのである。 また常に後進を指導援助し今や後進の独立営業するもの全国に百数十人の多きに至る。実に北川勇作氏の美徳とするところである。 又、敬神報恩の念篤く、学校の建設、奨学資金、神社仏閣の造営その他、公共事業等に寄附を行い、社会に貢献する。しかし、こらから益々の発展の矢先、病魔に冒され、大正十二年六月六日、四十九歳にて病没する。 昭和十二年五月、大日本製餡組合員一同は製餡業界の先駆者で大恩人である北川勇作氏の遺徳を永遠に伝えんと欲し、承元寺院の所有地を譲り受け、承元寺区民の協力のより、ここ生誕の地に氏頌徳碑を建設したものである。 昭和十二年五月 (頌徳碑の説明板からテキスト化した)
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果樹研究所の正式名称は「農業・食品産業技術総合研究機構 果樹研究所 カンキツ研究興津拠点」である。2月9日(土)、興津宿・寒ざくらまつりが開かれる。 果樹研究所の一般公開に合わせて開かれる「寒ざくらまつり」も、今年で11回目となる。以前は興津駅前広場で開催していたが、数年前から海岸近くに出来た興津コミュニティセンターが会場となっている。 東海道五十三次を昔と同じように歩く旅が静かなブームらしく、興津から清水までの国道でハイキング姿のグループをよく見かける。巡礼のような気分になるような気がして、一度体験しようと思ってはいるのだが、富士登山と同じでまだ未完である。 このチラシで、製餡発祥の碑が八幡神社にあることを知った。承元寺町にある八幡神社に、出かけてみようと思う。歩くのがいいに決まっているのだが、小島と興津の境目になるので、私にとってはかなりの覚悟が必要だ。


袖師小学校の4階から運動場を見る。左側の楠の木と比べ、やせ細ったように見える右側のゆうかりの木が痛々しい。耐震工事のため仮設通路がプールに沿って造られている。本館から新館への移動は、これを使う。「静岡県内でも積雪が予想されます」という天気予報を聞くと、40年前の記憶と重なり期待に胸が膨らむ。今朝も、もしかしたらと思って窓を開けたら、冷たい雨が降っていた。 40年前の冬、雪に縁の薄い清水にも雪が降り、みなれた景色が白一色になった。積雪といっても豪雪地帯からみれば笑われてしまう程度だったが、清水にとっては何十年ぶりの雪に、みんな興奮した。 同世代の友人に、その話をすると例外なく覚えている。ただし、それが何年だったのか、東京オリンピックの前だったか後だったか、一年前か、二年後かという話になると、記憶があいまいになる。 私は中学1年か2年の冬だと思い込んでいた。東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年は小学校6年だったから、1965(昭和40)年1月なら、まだ小学生だ。もし中学1年の冬で、雪が積もったのが1月とすれば、1966(昭和41)年1月となる。 一番冷え込むのは2月だが、話を簡単にするため1月に積もったとして、年代だけを考えよう。 同年の友人は「小学生だった」と覚えている。小学生だったとしたら、1964年の1月だ。小学校時代を東京で過ごした友人は、清水での雪を覚えていないという。だから、清水に戻る前の1965年以前だと推測している。この推測は信憑性が高い。 「興津三十年誌」には興津町が清水市と合併した1961(昭和36)年から平成に至るまでの詳細な年表がある。集中豪雨での被害については、繰り返し記載されているが、大雪の記録はない。雪が積もって混乱はあったが災害という扱いにはなっていないのだろう。 歴史には記録されなかったが、私たちの記憶にはっきりと刻まれている。学校の運動場を白く埋めた大雪が降ったのは、いつだったのかを知りたくなってきた。 あの大雪が、何年だったのかご存じの方はいらっしゃいますか。

袖師小学校の階段に付けられている木製の手摺り。真鍮で作られたノブのような突起は根本がグラグラしているが、まだ健在だ。

秋葉山公園から山原山、竜爪を望む。青い円筒型は清水次郎長のイラストでお馴染みの清水インター傍にある給水タンク。右端の建物は清水厚生病院。今日は「大寒」。一年で一番寒い(さぶい)という二十四節気の決まり通り、清水も冷え込んだ。 昨日の天気予報では、夜中に平地でも3センチ程の積雪も予想されていたが、清水の平地は雨だった。朝早くには山原山もうっすら白く見えたが、9時を過ぎたころには、それも消え竜爪の白さが、「大寒」の証拠のように残っている。 ひとくちに清水と言っても広い。平地と山間部では寒さ、暑さが驚くほど違う。 静岡市となれば、北は井川、南アルプスである。 以前、金谷からSLに乗り、千頭でトロッコ列車に乗り換え井川で一泊したことがある。市外局番が静岡市だったのが意外だった。そんな話を友人にしたら、「東京から伊豆七島に電話をかけると市内通話だぜ。それに比べりゃ近い」という話になった。 近くで起こっていることでも、知らないことは山ほどある。 百聞は一見にしかずという言葉の通り、文字や写真だけでは伝わらないことがある。ネットワークで得た縁を手かがりに、時には山を越え、海を越え出かけることも大切だと思う。 大寒の冷たい(つべたい)風に吹かれながら山々を見つめていると、気持ちが大きくなる。

第二東名の工事現場を望む。右端に「六角堂」の看板が見える。以前はおしゃれなカフェで六角形の建物だったが、その後ラーメン店となり、建替えられた今の店舗は四角だ。左端には西久保に縁の深い「緑ヶ丘書店」の文字も見える。

朝のNHKニュースから画面を撮影。左端、静岡県西部の文字がかすれているのは、次の画面に変わる直前だったため。静岡県でも夜中に雪が降るかもしれないという天気予報が、昨夜から流れている。雪国の人たちからすれば笑い話を通り越して怒られるかもしれないが、少しわくわくしている。 自分の記憶のなかで、清水での一番の積雪は、中学1年か2年の時だったと思う。学校のグランドが雪で埋まり、雪合戦をしたのを覚えている。もっとも、積雪といっても数センチだったから、たちまち泥混じりの雪合戦になり、雪だるまを作るつもりが、出来たのは泥だるまだった。それでも、生まれて初め見る雪景色に興奮していた。 泥だるまの冬から40年が過ぎたが、今もって、その時を超える積雪は体験していない。 雪に縁のない清水は、たとえ数センチの積雪でも交通が混乱するだろう。それを、今から心配する気持ちと、雪の清水を見たいと願う気持ちが同居しながら、曇り始めた空を見上げている。

20日の清水は昼過ぎまでは陽が差し込んでいたが、雲が広がり、4時頃から小雨が降り出した。予報では平地でも数センチの積雪と予想している。【写真は港橋】

清水駅前の静鉄バスターミナルを出発するJRバス。折戸車庫から出発したバスは、清開2丁目、フェルケール博物館前、新清水、清水駅前に停まった後、そのまま清水インターから東京へ直行する。清水と東京駅を結ぶ直行バス「しみずライナー」に乗った。 朝7時に清水駅バスターミナルから出る便だ。座席は5D、前から5列目の右窓側だ。家を6時45分に出て、清水駅に自転車を走らせた。6時から開いている駐輪場に停めた。料金は50円。バスターミナルに着いたのが6時55分、すでに家族連れなどが集まっている。予定通りなら9時39分に東京駅日本橋口に着く。 予定を少し遅れてバスが到着した。一列に並んで乗車が始まったのだが、なかなか列が進まない。予約をした人が料金を支払っているようだ。遅れて来た理由は、このことだったのかもしれな。私は予約の時に支払い済みなので、座席を確認し切符にスタンプを押すだけだった。

東京行きの電光表示は「清水→東京駅」、東京発の便は「清水駅(折戸車庫)」となる。新幹線の方が、「こだま」なら30分、「ひかり」なら1時間ほど早く着くが、清水からの乗り継ぎを考えると直行便はありがたい。しかも、運賃は大人片道2800円、新幹線の半額である。座席番号を探していると、「磯谷さん」と声が聞こえた。振り向くと知人が笑っている。清開から乗ったらしい。このバスに乗っている人は、みんな清水の人なんだと思うと、それだけで嬉しくなった。 西友の前を右折したバスは西久保車庫、袖師公民館の前を走り、左折して清水インターに向う。貸切バスで東名に乗るときと同じコースだ。乗合バスなのだが、なんとなく貸切バスのような気分で新幹線とはひと味違う旅になった。 東京での用事を済ませ、帰りは八重洲南口18時10発の「しみずライナー」に乗った。東京駅のバス停で「清水駅」と表示されたバスに乗れるのが嬉しい。 休日とあって行きも帰りも満席だ。昼間の疲れもあって帰路のほとんどは眠っていた。名古屋が終点の東名バスと違って、乗り過ごす心配がない分、安心して眠れたのかもしれない。 20時40分、清水駅前のバスターミナルに着いた。家に向って自転車を走らせながら、乗り換え無しのありがたさを感じた。
【関連】しみずライナー≫
明日の日曜日、東京に暮らす清水出身の友人と会う。
「秋月堂の駿河小饅頭」へのリクエストがあったので箱入りを求めた。包装するのを待っている時、「清水っ子」の文字が目に入った。カウンターの上に置いてあるバラ売りのなかから「清水っ子」を選び、その横にあった「清水港かっぽれ」も加えた。
バラ土産というのも面白そうだと思い。近くのスーパーに寄って、SSKのマグロフレーク缶をカゴに入れた。缶詰売り場の大半はツナ缶が占める。はごろもフーズは全国区なので、KGS駒越食品と由比のイナバ食品の缶詰を一個ずつ加えた。
パン粉をまぶして油で揚げるだけになっている冷凍食品の「黒はんぺんフライ」は、正月用の冷凍タラバガニに場所を取られたようで、残念ながら見あたらない。それに代わるものを探したら、静岡限定で販売されている「マルちゃんハイラーメン」が目に入った。
1962年に登場した「マルちゃんハイラーメン」は、麺と粉末スープが別々になった画期的なインスタントラーメンとして話題になったという。今ではそれが当たり前だが、麺とスープが別になったことで、野菜を入れるなど調理の幅が広がった記念すべきラーメンである。
次に江尻の三保屋わさび店に向い、「大政小政漬」を加えた。清水でないと手に入らない土産なら、これを外すわけにはいかない。
雑多な清水土産を持って、明日の朝「しみずライナー」で東京へ向う。


清見寺の山門を入ると目の前に咸臨丸乗組員殉難碑がある今年のNHK大河ドラマ「篤姫」が始まった。一年間続く物語のクライマックスは江戸城明け渡しである。勝海舟と西郷隆盛が会談し無血開城が実現するが、この会談では山岡鉄舟の役割を忘れるわけにはいかない。 薩摩藩討伐を目論んだ幕府軍は鳥羽伏見の戦い(1868)に破れ、徳川慶喜は兵庫から海路、江戸に向った。王政復古の大号令による大政奉還に満足しない薩長は武力による幕府の解体を目指した。有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を東征軍大総督とし、薩摩、長州、土佐を始め20余の藩兵が江戸へ進軍した。錦の御旗を先頭に進む官軍である。 1868年(慶応4)3月5日に、官軍は駿府城に着き4月8日まで滞在した。そのなかに軍参謀の西郷隆盛がいた。3月9日、勝海舟の意向を受けた山岡鉄舟が、敵中にもかかわらず駿府城の西郷に勝の書状を手渡した。山岡は西郷に無用の衝突を避け、徳川家に寛大な処置をとることを懇願した。 西郷隆盛は江戸へ向い、3月14日に勝海舟との会談に臨んだ。山岡鉄舟が西郷に会った5日後である。江戸城の無血開城は実現したが、敗北に不満を持つ幕臣など3000名が彰義隊を名乗り上野寛永寺に立てこもり抵抗した。彰義隊の敗北で、新政府への反抗勢力は、仙台、会津、庄内など東北地方に移ってゆく。 徳川家は政権を新政府に明け渡し、最後の将軍慶喜は駿府へ移った。徳川慶喜の駿府入城により、170年続いた小島藩は解体され、清水は徳川の領地となった。徳川家は新政府に恭順の意を示すことで命脈を保とうとしていた。 幕府の崩壊で「徳川家の家臣の多くは難民となり、江戸から駿府にむけて流れ」(清水市史)出していた。駿河にやってきた旧幕臣の「難民」は7千人近くいたという。領主となった徳川家は、清水、静岡の民家や寺に住まわせた。これを、清水の人たちは「おとまりさん」と呼んだ。

鈴藤勇次郎が描いた「咸臨丸」 教科書の挿絵でお馴染みの絵だ榎本武揚が率いる一団は駿府に流れることを拒み、軍艦で函館に向った。その艦隊のなかに咸臨丸があった。品川から出航した咸臨丸は、銚子沖で台風に遭遇し下田港に避難した。そして、船体修理のため清水湊に向った。 三保本村沖合まで来たとき、官軍方の艦艇から砲撃を受けた。艦上での戦いで多くの旧幕臣が殺され海に投げ棄てられた。ようやく上陸した家臣たちに、領主となった徳川家は「一夜之宿も貸申間敷候」と町民が匿うことを厳しく取り締まった。「徳川家は家系存続のため、旧幕臣が頼るのを断ち切ったのである」(清水市史)

清見寺の五百羅漢像は裏山に沿って置かれている。一番上に登ると日本平まで見渡せる新政府を恐れ、清水の領主となった徳川家も家臣を見捨てた。誰も手を差し伸べることができなかった時、「死ねば皆仏」と遺体を海から引き上げ、手厚く葬ったのが清水の次郎長である。「壮士の墓」は次郎長の晩年の生き方を決定する出来事となった。 函館の五稜郭で新政府に対する最後の抵抗をした榎本武揚は、その才覚を認められ恩赦から明治政府の海軍副総裁にまでなった。明治19年、清水湊での「壮士」の話を聞き、清見寺に「咸臨丸受難記念碑」を建てた。榎本が書いた「食人之食者、死人之事」は史記の一節で、旧幕臣の忠節を誉めたものという。 咸臨丸乗組員殉難碑が徳川家を祭る東照宮でなく、事件の起こった清水港周辺でもなく、興津の清見寺なのか、少し気になる。 明治という時代、天皇が座る玉座がある清見寺に、徳川家から見捨てられた武士の殉難碑は似合わないと思う。どこかの資料に、榎本武揚の意図が書かれているのだろうか。 「次郎長翁を知る会」の年表によれば、1887年(明治20)4月17日、清見寺において咸臨丸乗組員殉難碑の除幕式が行われている。その夜、「末廣」にて関係者の慰労会が行われたという。その翌年、山岡鉄舟が他界した。次郎長は旅姿にて東京谷中の全生庵で行われた葬儀に参列している。 今年の大河ドラマ「篤姫」は次郎長の生涯と重ね合わせながら楽しめそうだ。
●参考資料(次郎長翁を知る会)●
咸臨丸と壮士の墓≫
静岡異才列伝「山岡鉄舟」≫
1月6日の午後、御穂神社にお参りをした。
日曜日とはいえ、七草粥の前日ともなると、さすがに人影は少ない。それでも拝殿のなかで神官からお祓いを受けている人たちの姿が見える。枝に結ばれた無数のおみくじと、賽銭箱を囲む白い布から初詣の賑わいが想像できる。
現在の三保、折戸、駒越は、江戸時代には御穂神社の社領で、神官の太田氏が領主だった。「駿河国三保村誌」に、当時の石高が記されている。三保54石、折戸17石、別府(駒越)35石、合計106石である。
秀吉が行った太閤検地に始まり明治時代の地租改革まで、財政規模は米の生産力に換算して示された。これを石高制(こくだかせい)と呼ぶ。1石は、1人が1年間に食べる米の量を1000合として計算している。1000合=100升=10斗=1石となる。
「わが郷土 清水」には江戸時代の石高を清水の地区別に分類している。代官の所領地の石高を書き出してみる。興津地区1245石、江尻地区441石、辻地区258石、飯田地区514石、高部地区62石、清水地区104石、入江地区1236石、不二見地区832石、有度地区1033石。これらの地区には、代官の他に旗本の所領地もあるので、石高の合計は更に増える。
この時代、御穂神社の氏子は3500人という。それに対する三保、折戸、駒越の合計が106石である。いかに少ない数字なのかが判る。
やせた砂地に苦労する農民に、サツマイモの栽培を教えた人物がいる。入江の慈雲寺の僧、長泉和尚である。安永年間(1772〜1780)、九州からサツマイモの苗を取り寄せ、栽培を奨励した。
サツマイモの栽培では青木昆陽が有名だが、この時代、すでに西日本ではその栽培が広がっていたという。大勢の先人が各地で、飢饉への備えとしてサツマイモの栽培を奨励したと考えたい。
羽衣の舞が奉納される舞殿を背にして鳥居を見ると、その先には。「神の道」と名付けられた松林が海まで続く。御穂神社が領主だった時代、三保に暮らした私たちの先祖はどんな気持ちで、この松林を見ていたのだろうか。
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●純米吟醸無ろ過生原酒「萩錦」●アルコール分17度以上18度未満●原材料名/米・米こうじ/精米歩合60%(誉富士100%)●製造年月/19年12月●醸造元:荻錦酒造株式会社/静岡市駿河区西脇381
酒米の「誉富士」は静岡県農業試験場で品種改良された新しい銘柄米で「臥龍梅」や「正雪辛口純米」など、県内蔵元で使われている。
●「荻錦酒造」をALPSLABで見る20年ほど前の話になるが、パソコン通信というものがあった。掲示板やメールでのやりとりは、どこか同好会、同人会の雰囲気があった。mixiのコミュと呼ばれる会議室に似ているような気もする。 NECのPC-VAN、富士通のニフティなど全国に会員を持つネットの他にローカルなネットもたくさんあった。静岡県中小企業振興公社が運営していた「ちゃっきりネット」も、そのひとつだった。 中小企業や、個人商店の異業種交流を目的に作られた「ちゃっきりネット」から新たなビジネスが産まれたかどうか定かではないが、「異業『酒』交流会」と名付けた懇親会は頻繁に行われた。 山に出かけ釜で飯を炊き、浜で七輪を囲み魚を焼いた。冬の田んぼで芋煮会もやった。清水から伊豆の河津まで自転車で出向いたり、蔵元から講師を招いて地酒の勉強会も開いた。 その頃の仲間から紹介してもらい、正月用に「萩錦」の酒を頼むようになった。 暮れになると「今年はどうしますか」というメールが届く。返信で本数を伝える。次に蔵出し日の連絡がある。以前は、引き取りも友人に頼んでいたが、ここ数年は西脇の蔵元へ取りに出向いている。 呑み終えると瓶を水に漬け名入りラベルをはがし、毎年1枚だけ食器ケースのガラスに貼り付けている。今年の分で7枚目になった。 ラベルを見ながら、1年前、2年前と記憶の糸をたぐり寄せてみると、3年前ぐらいまでは順序立てて覚えているが、それ以前の正月はぼんやりしている。子どもたちと百人一首をやったり、浅間神社や毘沙門さんに出かけたことは覚えているが、それが何年前だったか、しばらく考えないと答えが出てこない。 忘れているのではない、順番が曖昧なのだ。毎年のどかな正月を過ごしていたようだ。曖昧な記憶しか残らない平凡な日々、それが一番かもしれない。

浜田踏切りの脇にある大きなマンションの入口に寒桜が咲いていた。

東海道に面した興津の家々では正月の注連飾りを個々の家が付けるのではなく、長縄を張り巡らせる。円筒型の郵便ポストも健在である。興津の話を続けよう。 東海道五十三次を定めたのは徳川家康である。1601年(慶長6)の正月に代官頭の彦坂元正(ひこさかげんしょう)に東海道の巡視を命じ、それを基に日本橋から京都まで53の宿を定めた。静岡県内には東の三島から、西の白須賀まで22の宿があった。

興津交番横にある「興津宿」の表示。交番の横には興津公民館があったが、新しい公民館が清見潟公園内に出来たため取り壊され、更地になっている。「わが郷土 清水」(戸田書店刊)には、関所や宿場として興津が選ばれた理由が書かれている。 まず、東海道を西へ行くためには由比からは海岸沿いの難所か、薩?峠を越すしか道はなかった。どのルートを通っても興津に出た。次に、興津川に沿って甲州方面から来る人も必ず興津に出た。これらは地勢上の理由。 それに加え、人的というか政治的理由があった。府中(駿府)の宿には紀州や尾張など親藩大名が泊まったが、外様大名は府中での挨拶を面倒がって、江尻や興津の宿を利用することが多かったという。

興津を通る旧東海道は、ここから西久保車庫まで国道1号線と重なる。吉良上野介や浅野内匠頭も、この道を歩いた。興津宿の宿帳には元禄10年に吉良上野介と浅野内匠頭が、日は違うが何度も同じ宿に泊まり、どちらも草餅を注文した記録が残っているという。長崎のオランダ屋敷に住むオランダ人の一行も毎年のように興津の宿に泊まった。オランダ人の献立には、キジ、ヒラメ、スズキ、卵の他にミカンが出されている。 参勤交代の制度が出来てから、東海道の往来は激増した。それとともに、宿場で用意している人馬だけでは足りなくなり、近隣の村々から人馬が徴用された。これが助郷である。 興津宿の助郷は、袖師、庵原だけでなく、西は瀬名、南は駒越まで48ヵ村に広がっていた。江尻宿の助郷は33ヵ村である。興津宿の賑わいが判る。
【用語解説】助郷 (横浜国道事務所・よここくナビ)≫参勤交代は気候の穏やかな3月から7月までの時期に集中して行われた。また、天下太平の時代が続くと、大名行列も贅沢になり、寝具、衣類、食器の他に風呂桶まで運んでいる。増える荷物を運ぶための人馬が不足し、助郷から供出された。しかし、百姓にとっては一年で一番忙しい時期である。人馬が大名のために徴用されることは苦役であった。 江尻宿に残された記録から推測すると、江尻宿助郷33ヵ村から年に延3万6千人が徴用された計算になる。本来の制度は100石当たり2人馬2匹だったが、その200倍が徴用されていた。困窮した村惣代はたびたび奉行所に嘆願書を出している。記録では1863(文久3)前後が一番酷かったという。寺田屋騒動、生麦事件、薩英戦争の頃である。 そんな民百姓の苦しみを、駕籠に揺られる大名が知るよしもない。参勤交代は消えたが、民の声が届かない為政者の姿は、現代にも通じる。

蒲原海岸から見た清水の姿が好きだ。東海道を旅した数知れない人たちも、この景色に足を止めたと思う。

興津清見寺。写真の中央、一番大きな建物が「大方丈」、その右側の屋根が「大玄関」、左端に見えているのは「仏殿」。仏殿の西側に五百羅漢像がある。「清見寺」の山号(さんごう)は「巨鼇山」(こごうさん)である。 山号を付けた正式名で呼ばれる代表格は比叡山延暦寺だろう。山号だけで通じるのは節分の豆まきで名高い千葉県の成田山新勝寺。逆に、金龍山浅草寺のように山号を付けない方が判りやすい寺もあり、山号の使われ方はさまざまである。 山号の由来を調べると中国の宋の時代に遡る。宗の太祖は全ての寺院に序列をつけ免許制とした。寺院の影響力を国王の支配下におくためである。その制度は朝鮮を経て日本にも広まった。ただし、日本では寺院の影響力を国家が完全に統制したのは、明治元年(1868)の神仏分離令である。そのため、日本での山号は国家統制という意味が薄れた。屋号と言ったら顰蹙を買うかもしれないが、それに近い感じがする。
江戸時代の初期に造られた庭園。家康は、この庭を愛し、駿府城より虎石、亀石を運んだという。昭和11年に国の名勝指定を受け保護されている。(清見寺略記より)寺の入口にある門が、寺門ではなく山門と呼ばれるのは、極楽浄土は寺の背後に続く山々にあるからだという。お盆には先祖の霊が近くの山から家に戻ってきて、正月には七福神が船に乗ってやってくる。現世に住む私たちは、それらを暖かく迎え入れるのが日本の習わしだ。荒涼とした大地のなかで産まれ育った異国の宗教とは異なる、日本の風土が生み出した死生観だと思う。

正面に掲げられている琉球王子筆の額。ガラス戸から差し込む西日が床に敷かれている赤い毛氈に反射して全体が赤く見える。「大方丈」の正面に琉球王子の筆による「永世孝享」の大きな額が掲げられている。清見寺は朝鮮通信史や琉球王子が逗留した寺として名高い。 寺の説明書きには「宜野湾王子 尚容 朝陽書 寛政2年(1790)」と記されている。11代将軍家斉、寛政の改革の時代である。 琉球王国の使者として王子が派遣されることを「江戸上がり」と呼ばれた。 余談になるが、その当時、酒の本場は関西で、江戸に運ばれる灘、伏見の酒を「下りもの」と呼んだ。江戸に運ばれることもない劣悪な酒は「下らない」と呼ばれ、転じて劣悪なものを指す言葉になったという説がある。 「江戸上がり」は幕府への従順を示す道中であった。文化の中心は京、大阪でも権力の中枢は江戸だった。 王子は琉球国王の子である。代々の王には正室、側室の子と何人もの王子がいた。王子は、それぞれに領地を与えられる。「宜野湾王子朝陽」は宜野湾を領地としていた王子の立場を表す名前である。王子は政治に関わることはなく「江戸上がり」のような儀礼を職務としたという。 琉球国からの使節には、琉球国王即位の際に派遣される「謝恩使」と徳川家将軍の世襲を祝って派遣される「慶賀使」があった。「永世孝享」を書いた宜野湾王子は11代将軍徳川家斉の就任を祝う「慶賀使」だった。

王政復古の前年である1867年(慶応3)に建築された書院。奥の左側に明治天皇と大正天皇が座った玉座が保存されている。1609年(慶長14)薩摩藩主・島津家久は3千余の大軍をもって琉球王国を侵略した。軍事力を持たなかった琉球王国は敗北し、薩摩と幕府に支配されることになった。国防の必要から鎖国政策をとりつつも、中国や朝鮮との貿易の窓口を残しておきたかった幕府と薩摩藩は、王国体制を残しつつ間接統治を行った。薩摩藩は琉球に高額の税金を課し、貿易を通じて莫大な利益をえた。この富が幕末を動かす力となった。 清見寺は、大化の改新の時代から、鎌倉、戦国、江戸時代、そして明治、大正と日本の歴史を刻んできた。そんな名刹が家から車で10分足らずの場所にあることは、幸せなことだと思う。